なまぬるい日本の私 ー ガザ危機から考える
2023年10月に始まったイスラエルのガザ侵攻は、契機がハマスの越境攻撃であったかどうかと無関係に、深刻なジェノサイドとして国際社会に認識されています。また紛争は、中東の周辺国にも拡大しています。政府としてイスラエルの側に立つ姿勢を明確に示している日本は、いつ、巻きこまれて攻撃されるかわかりません。
一連の成り行きおよび先進国の対応、特にユダヤ人迫害の当事者国だったドイツの対応をを見ていて、私は「もしかして、日本の敗戦処理は良い線を行っていたのか」と考えるようになりました。
私が考えたことを、本記事にメモ書きとして記しておきます。
なまぬるく不徹底だった日本の敗戦処理
天皇の戦争責任
1945年の敗戦後、日本は1952年までGHQの占領下におかれました。敗戦処理は占領中も占領終了後も行われましたが、なまぬるさと不徹底ぶりは国内外で不評です。
昭和天皇には、立場に伴う戦争責任が当然ありましたが、東京裁判の被告にはなりませんでした。「天皇を処刑すると日本の統治が難しくなるだろう」といったGHQ側の計算をはじめとする、さまざまな事情と思惑と交渉の結果です。終戦時の首相であった東条英機をはじめとするA級戦犯を罪に問い処刑することで、一応の幕引きとなりました。
戦意高揚コンテンツの取り扱い
日本の敗戦処理の不徹底ぶりは、戦時下の軍歌や歌謡曲や子どもの歌、小説やマンガなどの戦意高揚コンテンツが消滅しなかったことにも表れています。GHQの意向だったのか、それとも日本政府の意向だったのか、まだ調べていませんが。
被占領期、連合国側による被害に関しては、出版やラジオ放送には相当の制約があったようです。長崎の原爆で妻を失い自らも被爆した医師・永井隆が著した書籍『長崎の鐘』が映画化された際、藤山一郎が歌った主題歌に「原爆」や「原爆による被害」を示す用語を用いることができず、カソリック信徒であった永井の妻がロザリオを身に着けたまま原爆で死んだエピソードを、「ロザリオ」という単語で辛うじて示したことが伝えられています。いわゆる「八月ジャーナリズム」が日本人の戦争被害に偏りやすかった背景は、被占領期に禁じられていたことにもあったのかもしれませんね。戦時下の戦意高揚コンテンツについても、おそらく相当の制約があったのでしょう。
しかし1952年、被占領が終了すると、戦争と関連したコンテンツに関する制限はなくなりました。終戦時に残存していたものの相当数が、現在も残存しています。
2024年の私は、いわゆる「八紘一宇」すなわち日本のアジア植民地化の意義を訴求するアニメ映画と、そこに使用された歌を視聴することができます。素晴らしいクオリティです。目的と内容を度外視すれば。同じ敗戦国のドイツにも、数多くのナチス賛美と戦意高揚のためのコンテンツがありましたが、ほぼ全部が消滅しています。
戦争犯罪における加害責任
日本を一歩出ると、第二次世界大戦での日本の戦争犯罪について無意識無関心でいることはできません。徴用工問題や従軍慰安婦問題、捕虜の虐待や殺害などの国際軍規違反。挙げ始めるときりがなくなるので、本記事では止めておきますが、政府は「決着した」としているけれど当事者国は「きちんとした決着に至った」とは考えておらず、当事者だった方々の寿命とともに「当事者の問題としては終わらせられてしまったけれど、未来のために」という問題に移行していることがらは多数あります。なお、本土は沖縄に対しても戦争責任を負っていますが(ご関心ある方は、なぜ沖縄戦があったのかを調べてみてください)、その問題も「明確に決着した」というわけではないまま現在に至っています。
なお、生活保護の研究で博士学位を授与された私としては、生活保護の原則の一つである「無差別平等」が、当初は戦争によって戦争障害者となった元軍人や軍人遺家族の生活保障における優遇を禁じたものであったことを指摘しておきたいところです(現在と同じ意味での「無差別平等」となったのは、1950年の新生活保護法から)。1952年までは軍人恩給が禁止されていましたから、「お国のため」に戦って障害者になったり死んだりした方々やその遺族や家族も、生活困窮状態にあるのなら、等しく生活保護で生きるしかなかったのです。しかし被占領が終了すると、あっという間に恩給が再開されて現在に至ることになりました。
なまぬるい日本の敗戦処理、そして、なまぬるい日本の私
天皇の戦争責任は問われるべきだったのか
日本社会が未成熟であるとされる場合の根拠の一つに、「民衆が血を流して、王様や権力者の首を取ったことがない」というものがあります。その延長に、「昭和天皇は戦争責任を問われて処刑されるべきだった」という主張もあります。障害者であり貧困問題の仕事を長くしてきた私の周辺には、右派右翼よりは左派左翼が圧倒的に多く、そこで非常に高い頻度で聴かれる主張の一つでもあります。
なまぬるい日本の私自身は、中道左派くらいのつもり。天皇や天皇制への特段の思い入れはありません。ただ、「悪の象徴である特定の誰かや何かを消滅させれば、すべてうまくいく」という考え方には立てずにいます。王族をギロチンで処刑したり冬の湖で凍死させたりしたフランスやロシアの例を出されても、戦争責任者であったヒトラーやムッソリーニを処刑したうえに裁判等で戦争責任を厳しく問い続けているドイツやイタリアの例を出されても、どうにもならない違和感が残っていました。特別な階級が存在する社会は平等ではありませんが、その階級をなくせば平等になるのでしょうか? 戦争に巻き込まれずにいることができれば理想的ですが、国や地域ごと巻き込まれてしまっているとき、巻き込まれたことについて個人に罪を問うことは妥当なのでしょうか?
戦意高揚コンテンツは破棄されるべきだったのか
なまぬるい日本の私は、軍歌や戦意高揚のために作られた歌謡曲を、ただ「音楽」と認識します。どのように音楽として作られ、どのようにクオリティが担保され、あるいはダサかったのか。どういう音楽であったのかが不明なら、どのような目的に対してどういう効果を上げたのかもわかりません。
同じことは、ナチス・ドイツ時代の戦意高揚コンテンツに対しては行えません。音楽の場合、楽譜が消滅してしまっています。その作曲家の作品が全く残っていない、あるいは1曲だけ残っている、といったこともあります。その一つが、往年のブルートレインファンの耳になじんだこちら。著名な作曲家だったハイケンスの他の曲は、ナチスに協力したため、タイトルだけ残っていたり存在も不明になっていたりするようです。
戦争犯罪の過ちを再発させてはならないことには、激しく同意します。そのためには、誰が何にどのように刺激されて過ちを犯すに至ったのかを後世の人々が追体験、あるいは当時の史料から理解できる状態でなくてはならないのではないでしょうか。
ドイツの敗戦処理は、やりすぎだったと思います。やりすぎは、反動も呼び覚まします。反動をユダヤ人に向けることだけは厳しく抑圧しているドイツで、反動がどこに向かうのか。西欧の中でもドイツは移民排斥が激しい国になっているのは、なぜでしょうか? ともあれハイケンスさん、セレナーデだけでも残ってよかったね。
戦争犯罪における加害責任とは?
戦争犯罪における加害責任は、むろん免責されるべきではありません。しかしながら、もしも「戦争だから起きた」「〇国(〇政権)だから起きた」というわけではなく、戦争や特別な政権は事態を深刻にしているだけであるのなら、加害責任を裁くだけでは不十分ということになります。
2023年以後、ガザでイスラエル軍兵士たちが行っている蛮行の数々を、報道やSNSで目にしない日はありません。パレスチナの方々のご遺体への放尿、食糧配布所や医療機関を狙い撃ちにした攻撃。本日2024年11月23日は、深刻な飢餓状況にあるガザに毒入りの缶詰を置き、食べた人々が中毒する様子を見て面白がる動画の存在が広まりました。その飢餓状況も、ゴキブリホイホイの中のゴキブリの衰弱をなるべく長期間にわたって継続させるかのように、イスラエル側によって計算づくで作られて維持されているものです。
私は正直なところ、特別なことが行われている気がしません。
さまざまなめぐりあわせによって、私は虐待やDVやイジメを行う側に立つことがなく、受ける側に立ち続けてきました。殺されたり肢体を失ったり深刻な飢餓に陥るような状況には、未だに陥らせられていませんが、「断続的に苦しめてなぶりものにする」「人間としての価値を失わせる」「絶望させて救済らしきものを差し出し、その救済らしきものによって痛めつける」といったことは、物心ついてかれこれ60年間、常に経験してきました。私は、「残虐行為を行うイスラエル軍兵士」の多様なレベルと程度のコピーを見続けてきたような気がします。どのような背景や属性があろうと、何らかの後押しや契機があれば、人間は必ずそのような行為をしてしまうものなのだという確信もあります。私自身は幸か不幸か、継続的にそういう行為を行う立場には立ちませんでした(自覚はありませんが、瞬間的一時的には当然やっているでしょう)。しかし、そういう私自身も、状況によってはやるに決まっています。なまぬるい日本の私は、おそらく簡単に悪魔になるのです。
なまぬるさと「人間だから」は、打開の鍵なのかも
2022年のロシアのウクライナへの侵攻、2023年のイスラエルのガザへの侵攻は、周辺国や利害関係ある国々を含め、一歩間違えば世界大戦という状況を拡大し続けています。この問題について、私は何らかの回答を持っているわけではありません。
しかしながら、なんとなく確信があります。なまぬるい日本の私が、人間としての私自身を尊重することは、なまぬるく他者を尊重することにつながり、なまぬるく間接的にジワジワと世界平和につながるのではないかという確信が。
ロシアとウクライナの問題については、どちらが善でどちらが悪なのか判然としない複雑な歴史的地理的な事情があります。ガザに対するイスラエルは絶対悪に近いと思いますが、背景を作ったドイツの現在の状況、そしてナチスドイツ時代を反省しようにも理解や追体験が及ばなくなってしまうほど徹底しすぎた敗戦処理を思うと、「なんでもいいから、戦争はせめて一時停止を」くらいしか言えない気がします。
何より、残虐行為を悪とも何とも思っていないイスラエル軍兵士も、ガザ侵攻をビジネスチャンスと考えている兵器業者も、私と同じように人間です。悪だけ、あるいは善だけで出来ているわけはありません。戦争や戦争への協力を止めてもらうためには、相手も人間であることへの想像力を忘れずにいる必要があるのではないでしょうか。なまぬるい? はい。だって、なまぬるさがウリですから。
絶対悪として裁かれることへの恐れは、事態を深刻にするだけではないかと思います。極限状況に置かれているガザの人々には、生き延びたとしても厳しいトラウマ症状との闘いが待ち受けていることでしょう。ガザの人々には、ほぼ罪はありません。しかしながら、絶対善というわけでもありません。もしも世界大戦に至らず、なんとか終戦を迎えられる未来があるのなら、「あの時に助けてくれなかった人々」というガザの人々の視線を恐れなくてはならない日が必ず来ます。その時に、その人々に憎しみを抱かずにいられるでしょうか? 少なくとも私は、そんな聖人でいられる自信はまったくありません。相手も人間ですが、私も人間ですから。
なまぬるい日本の私は、「人間だから」というなまぬるい認識のもとに、自分のできる小さなことを探し、少しずつでも形にしていくのみです。なまぬるい? まったく何もしないよりはマシでしょう。
最後に拙著の宣伝。
被占領期の生活保護についても述べています。
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