241101 京都飛行場から軍都枚方へ
輪行ポタリング紀行 002
戦前、大阪の枚方に大きな火薬庫があったと最近知りました。建物自体はもう残っていませんが、遺構があるそうです。一昨日、京都飛行場跡とあわせて見に行ってきました。
01 男山遠望
7:00に阪急大山崎駅から出発しました。国道171号線を北上してから東に折れて久後山町を目指します。このあたりは、桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川になるところです。明治時代までは巨椋池という大きな池があり、辺りは湿地帯でした。橋を渡ると男山が見えてきました。山頂には『徒然草』にも出てくる石清水八幡宮があります。
02 京都飛行場跡
うっかり通り過ぎてしまい、ずいぶん後戻り。1942(昭和17)年にパイロットを養成する京都航空機乗員養成所が建造されました。十字の滑走路を持つ飛行場と棟がいくつか。1944(昭和19)年に閉鎖されるまでに400名余を養成しましたが、多く戦争の犠牲となられたそうです。記念碑の向かって左の石碑には歌が刻まれていました。
03 ウトロ平和祈念館
京都飛行場の建設には多くの在日コリアンの人々が従事しました。飛行場から自転車で20分、ということは歩けば小1時間はかかる場所が彼らの宿舎となりました。この地区は、いつからかウトロと呼ばれるようになりました。朝鮮半島と日本の歴史や日本で生きてきた在日コリアンの記憶や思いを未来へつないでいくために「ウトロ平和祈念館」が2022(令和4)年に開館しました。
04 流れ橋
木津川まで戻ってきました。この橋は木造としては日本最長級。なぜ木造なのか?名前のとおり流されることが前提だからです。水害などによって流されてもすぐに修復できるように作られています。しかし、近年、不審火があったために渡れません。近くに簡単には流れない橋があったので、少し遠回りをしただけで済みました。
05 王仁の墓と伝わる墓所
国道1号線をしばらく北上した後、枚方方面へ向かいます。住宅街の中に伝・王仁の墓がありました。王仁は古代の百済からの渡来人です。「日本書紀」によると『論語』などを日本にもたらしました。日本における文教の祖です。手前の植え込みはムクゲ(韓国の国花)です。壮麗な百済門の奥にお墓が見えます。美しい花がたくさん捧げられていました。王仁に思いを寄せる人が今もたくさんいらっしゃいます。
06 旧田中家鋳物民俗資料館
王仁公園通りという住宅街の道沿い、小高い丘の上にありました。まだ開館時間ではなかったのに、入れていただきました。ありがとうございました。鋳型に溶けた鉄や銅を流して製品にする鋳物師のお家です。田中家は江戸時代から鋳造の仕事をはじめ、昭和35年まで続けたそうです。主屋の隣には弥生時代の竪穴式住居の跡も残っていました。
07 中宮平和ロード
迷い迷いやっと枚方市の中心部まで来ました。住宅街は、通常、十文字に道が走っているものですが、中宮平和ロードは弓なりに円弧を描いています。戦前、陸軍が津田駅(今のJR学園都市線)から火薬庫まで引いた軍用鉄道(軽便軌道)の跡です。禁野火薬庫は1896(明治29)年に完成しました。43エーカーという敷地は「阪神甲子園球場計算機」によると、甲子園球場11個分以上です。
08 禁野火薬庫爆破事故の碑
中宮平和ロードから中宮団地へ向かう途中にひときわ目立つ石碑がありました。1939(昭和14)年に禁野火薬庫は大爆発事故を起こします。陸軍の報告書によると、死者94名、負傷者602人、家屋の全半壊焼821戸、4400世帯以上が被災。この石碑は職員38人の殉職者を慰霊するために建てられました。
09 禁野火薬庫土塁
本日、一番見たかった禁野火薬庫の土塁です。火薬庫が暴発した時、周囲に延焼を及ぼさないように築かれたといいます。1909(明治 42)年8月にはすでに 40 棟もの建物と火薬庫を取り囲む土塁があったそうです。今の建物の2階ほどの高さの土塁に、樫の木でしょうか、広葉樹が葉を茂らせていました。
10 百済寺跡
枚方は交野台地の西端に位置しています。河岸段丘の上は当時の水上交通の大動脈であった淀川を一望できました。この絶好の地に百済寺があったと言います。百済の王族の末裔、百済王氏が一族の氏寺と考えられています。奥に見えるのは今の百済王神社です。正直、こんなに大規模な遺構とは思っていませんでした。
11 淀川
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。なるほど、そういうものかと思います。我々は流れに浮かぶうたかたですらないのでしょうね。それでも、こういう感慨を抱くことができるのは、つくづく不思議です。
かなり道を間違えたので、結局50km、4時間もかかってしまいました。でも、ずっと行きたかったウトロにも行けたし、大満足です。