昔のことを思い出す/失われた時を求めて

 このnoteのタイトルは「失われた〈私〉を求めて」。もちろんプルーストの『失われた時を求めて』のもじり。
 でも私はこの小説を完読していない。一部だけしか読んでいない。
 だけどなぜか昔から妙にこの小説に対する憧れがあって、読んでもいないのに自分にとって特別な作品になっている。

 私は本は好きな方だと思うけど、小説が苦手。実用書とか新書とかは読めるんだけど。だから小説も基本的には短編か薄ーい長編小説しか読まない。ショートショートとか、サガンの『ブラームスはお好き』・コレットの『青い麦』・ドストエフスキーの『白夜/おかしな人間の夢』・ツルゲーネフの『初恋』とか。
 そんな私なので、『失われた時を求めて』を生きているうちに一度は完読してみたいと思ってはいるけど、それは私にとってはかなり難しいこと。
 読んでみたいならさっさと読めばいいのに、映画ばかり観ている。
 そういう「無理っぽさ」も『失われた時を求めて』に対する謎の憧れの一因になっているのかもしれない。

 そんなわけで私は『失われた時を求めて』は部分的にしか読んでいないのだけれど、私が大学生の時に講義で教授が「プルーストの『失われた時を求めて』を読んだことがある人はいますか?」と受講生全体に訊いたことがある。教授はさらに読んだことがある人に挙手を求めた。
 私は部分的にしか読んでいないしその時はその読んだ部分の内容もほとんど忘れていたけど「読んだことがある」には当てはまると思って手を挙げた。
 手を挙げた私を見て、教授は私に内容を訊ねた。
 私は正直に「覚えていません」と返した。
 すると教授は「それは読んだことにはなりません」とちょっと嘲笑う感じで私に言った。

 この教授の「それは読んだことにはなりません」という言葉が未だに引っかかる。
 私は手を挙げないのが正解だったのだろうか?

 その教授とはその後ちょっと交流があったんだけど、やっぱり人間性の面でおかしいなと思うことがあって疎遠になった。

 ただ、この教授にも一つだけ感謝していることがある。
 私は一応哲学専攻だったんだけど、卒論の内容(その時の私の興味の対象)は社会学みたいなものになっていて、卒論のゼミの教授に「完成度に問題は無いけど内容が哲学ではなく社会学だから」と評価を下げられた。私はあまり評価にはこだわらず自分が正しいと思うことをしていたい人間だし、「哲学とは知を愛するということで、何でも本気で考えたいことを本気で考えたらそれは『哲学』だと思う。だから私は哲学専攻の人間として間違ったことはしていない。だって私は『哲学者の研究』がしたいんじゃなくて『哲学』をしたくて哲学を選択したんだもん」という考えがあったから、評価が下がろうが自分が研究したいこと研究して書き上げた。
※大人になった今は、「社会学的なことを研究したいなら社会学を選択しろよ……」というゼミの教授の言い分もわかる。

 そのことをこの教授に話した時、この「知を愛する〜」云々の私の考えをこの教授は肯定してくれた。そこだけは感謝しているというか、その部分においてだけ私もこの教授を肯定的に見ている。

ふと、そんなことを思い出した。

-miinyan-

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