ネットのコメントについて思うこと

 何年も前にYouTubeのある報道系の動画にコメントをつけていて、その動画が結構再生されているから、私のコメントに対する返信もちょこちょこつく。
 返信がついたら通知メールが来るよう設定してあるので、返信の内容がメールで届く。
 その度に思うことがある。
 「それ、返信機能を使って私に言わないといけないこと?」

 例えば、私は「自転車が歩道を走る」ということを完全になくすべきだと考えているので、「子ども・高齢者・『やむを得ない場合』・『自転車通行可の標識』などの例外を全部なくして、『走りたい時は車道を通る、歩道(横断歩道含む)を通りたい時は誰でも・どんな状況でも自転車から降りて、自転車を押して歩いて通行する』というようにルールを変えるべき。その方が絶対にみんなが幸せになる」とコメントしたとする。
 そうすると、共感や支持を示すコメントもつくけど、反論や否定のコメントもつく。

 共感や支持はその元コメントとリンクしている(同じ主張をしている)から返信機能を使って関連づけさせてコメントをしても良いと思う。
 一方反論や否定のコメントは、その元コメントと直接関係無い別の主張なんだから、返信機能を使わずに「自分のコメント」として独立して書くべきじゃない?と私は思う。

 この例のまま書くと、「私は自転車は歩道を走るべきだと思います」とか「車からすると車道を走られるのは迷惑。自転車が車道を走って『みんなが幸せ』になるはずない」とか、そういうコメントを"返信機能を使って"つける人が出てくるけど、私はそれを「変だな〜」と思うということ。

 違う意見を持つのはまったく悪いことではない。
 違う意見はあっていい、書いて良いと思う。
 ただそれは、返信という形ではなく「独立した自分のコメント」として書けば?と私は思うのだ。

 「あのコメントの影響があって書きたくなった」と示したいなら、返信機能を使うのではなく「自転車が歩道を走ることを完全に禁止するべきだというコメントがありましたが、私は〜」と書きはじめれば良い。
 その独立した自分のコメントで共感や支持を得て、反論したくなったコメントと同じかそれ以上の力を持てば良いじゃない?
 「返信」という形にする正当性は無いと私は思う。

 ただ、動画の投稿者にコメントで反論するのは「正当性がある」と思う。投稿者と視聴者は対等ではないから。投稿者が再生回数に応じて広告料や信頼性を得ているなら、観た人(何らかの利益を与えた人)は意見する権利があると思うし、視聴者は「投稿者の主張」と「一コメントの主張」を対等には見ないから、投稿者の主張に危険性があるならたくさんのコメント主がその危険性を指摘するべきだし、「こんな反論がある」というのは視覚化されるべき。それは「コメントに対する返信」ではなく「独立したコメント」として反論するべきという主張においても同じ。
 「返信ではなく独立したコメント」にしても、一つの動画の中で肯定と否定が並べられることになる。「動画に反論コメントをつけてはいけない」にすると、その反論は「一つの動画」という枠組みの中で見られることはなく、どこかまったく別のところで、動画視聴者には見えないところでおこなわれることになる。それは良くない。

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 「誤字脱字や文法的な間違いの指摘」などは返信でするべきだと私は考えている(これはかなり一般的な感覚から離れているんだろうなとは思うけど)。
 だって、「間違い」はそのコメントをした人自身の問題だから。
 「間違いをいちいち指摘するなんて感じが悪い」と感情的にしか物事を考えられない人がいるけど、そうやって間違いを放ったらかしにすると人間はどんどんダメになると思う。
 人間は進化しなければいけない。だから間違いは指摘するべき。
 「言葉は生き物で、変わっていくものだから」と言う人もいるけど、私は「間違いを間違いと認識する頭があるかどうか」が大事だと考えているから、「間違いだと知らないまま使う人」をそのままにしておくことに正当性を見出せない。

 歩きスマホだけでなく、自転車や自動車の運転中にもスマホを手放せない人がいる。
 子育て中も子どもを見ずにスマホばかり見ている人がいる。
 これは「テクノロジーの進歩についけいけなかった人間(個体)の姿」だと私は考えている。

 包丁というものが無い世界に包丁という発明品が誕生したら、人類は「包丁を正しく扱える人間」に進化しなければならない。
 それと同じで、ITの(ソフト的な面でもハード面でも)進化のスピードはとても早く、人類はその進化についていかなければならない。
 セルフレジで例えた方がわかりやすいかな。
 セルフレジが普及してきて、有人レジが減っている。セルフレジというテクノロジーの進化についていけない人間は置いていかれる。セルフレジの使い方がわからなくてキレ散らかす人とかも出てきているらしい(ちなみに私はセルフレジ大好き)。
 セルフレジの使い方がわからないくらいでキレる時点でもう相当脳が萎縮してるんだろうけど、病気や障害でないのなら、その萎縮は「考える」という訓練をしつづけなかった結果=退化である。

 「考えない」と、人は退化する。
 
 だから言葉遣いにしてもいちいち「これは正しいか?」と考えるべきだし、指摘されたら「そんなこといちいち指摘するなんて不寛容社会になってみんな生きづらくなるよ〜、完璧な人なんていないんだから間違いなんて放っておいてよ〜、ネットでの言葉なんてテキトーでいいじゃん」等と言わず「ご指摘ありがとうございます」と素直に受け止めて間違いを正していくべき。

 完璧な人間はいない。完璧じゃないからこそ、常に自分を正しつづけないといけないんだよ?
 「完璧じゃない私のままでいい!直さなくていい!」なんて言うのは、「自分は完璧だ」と言っているようなもの。矛盾してるんだよ。

 そして、大事なのは「間違いを直す」と「違う意見を持つ」はまったく別のことだと理解すること。

 たぶんYouTubeの私のコメントに反論や否定のコメントをつけてくる人は「間違いを指摘している」感覚なのだと思う。でも私のコメントは「間違っている」わけではなくて、反論や否定をしてくる人と「異なっている」だけ。
 そば派もうどん派もいてもいい、というのと同じで、そば派が間違っているわけでもうどん派が間違っているわけでもないんだから、そば派がうどん派にわざわざ「うどんなんて」と言うのはおかしいし、逆パターンもまた然り。そば派もうどん派も独立して同志を集めれば良い。

 繰り返すけど、誤字脱字とか、歴史的かなづかいを現代かなづかいと勘違いして使っているとか、言葉の意味を間違えたまま使っているとか、そういうのは返信機能で指摘するべきだし、指摘された方は(その指摘が正しいかを確認した上で)素直に受け入れ自分を正すべき。

 こういうことを考えることなく誰でも・何歳でもネットで見知らぬ相手に「コメント」できてしまう今の社会の状態に、私は危機感を抱いている。

-miinyan-

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