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夏休みだ!

 もうすぐ7月が終わろうとしていて、夏休みが迫っている。学校に行くことで、かろうじて世の中に存在しているような気になっているから、長期休みは世界に存在していないも同然だ。自分を学校というもので誤魔化すことが出来なくなる。きっと自分の中で、自分に意味を持たせたいっていう欲が強いんだろう。死にたい死にたい言ってる癖に死のうとしない俺は、ものすごく生きたいと思っているんだというような気がしてくる。生きたいというか、生に望むものが大きいんだろうか。生とか死とかに無関心で居られない。何でもそうだけど、好きと嫌いは同じようなもんだと思ってて、同じというか、どっちかだけを思うのは不可能な気がする。生に無関心な人なんて居ないか。
 7月は生活が破綻を来していた。毎日寝る前に日記をつけているけど、7月を振り返ろうとしてノートを開いてみても5日分位しか書いてない。体調が半年くらい経っても良くなんなくて、精神的に参っていた。意識が飛びそうになりながら、スーパーの割引弁当を何とか食べて、倒れるように寝る毎日だった。翌朝、電気の点いたままの部屋で目覚めて、弁当のゴミが何個も放置されて掃除機も全然かけてない荒れた部屋を見て絶望していると、昨日も夜に風呂に入っていないことに気付いて、めんどくせーなと思いながら洗濯物が溢れているカゴを見ながら、シャワーを浴びに浴室に行く。学校に行くけど、どうやって学校に来たのかもよく分からなくて怖い。でも、身体で覚えるってこういうことか!なんて思ってもいる。7月はもう終わる。記憶はあるけど、どうしてもそれが動画にならない。
 月初めに、恐らく人生で初めてガストに行った。サイゼリヤは行ったことあったけど。ロボットが料理を運んでた。今住んでるアパートのすぐ近くにガストがあって、毎日ベランダから見ている。行ったのはそこではないけど、店内の雰囲気がなんとなく分かったから、見え方も変わった気がする。
 あとは、人と話をしていて、人間関係に名前を付ける必要があるのかと思った。俺は友達が全然居ないなーと思っていたけど、そもそも、この人は友達でこの人は友達じゃないって決めるとすると、なんか順位をつけているみたいで嫌。嫌というか、仮にそうやって友達と決めても、友達との時間とそうでない人との時間のどっちが大事とかそんなことはなくて、どっちも同じくらい大切だから分ける意味がない。関係が深いか浅いかもどうでもよくて、話をしているその瞬間に意味があって、今一緒に居て、話してるっていうそれだけだ。別に話をしてなくてもいいんだけど。
 そういや、行ってみたかった中華料理屋だか台湾料理屋だかが無くなるらしくて、街が変わっていくことを記憶に留めておく為にも行きたいなーと。今のアパートに引っ越してきて1年も経たないけど、周りも少し変わってきていて、前はこうだったってことを忘れずに居たいね。
 

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