箱庭の中で

酒が入ったのでまた書いてみることにした。 一定数の人はご存知だろうが、私は絵を描くことを趣味としている。もともとは周りから絵が上手いと言われ続けてきて今更引き下がれないというちっぽけなプライド(と、そして他者から己の能力を承認されたいという思い)から描くようになったのだが、ここ数年で描きたいテーマが明確に定まってきた気がする。

まずなぜ自分が自己表現ツールとして絵を用いるかというと、自分には言葉によって自らの感情を丁寧に表現できる人々への強烈な同族嫌悪と嫉妬がある。自分にはそんな繊細に己の感情を詩的に表すことはできないという重いから「説明不足をポエムに変換するなんて卑怯じゃないのか?」などと屁理屈をでっち上げてずっと妬んでいた。だから私は徹底的に装飾的な絵によって自己表現をするし、Twitterに絵を載せるときは背景を説明せず示唆的な言葉だけで済ませてしまう。こういう自分こそすごく卑怯な人間だろう。だがもう引っ込みがつかないのだ。

 次に描きたいテーマについて。自分は幼少期に中原淳一や藤井千秋のような昭和の少女画にひどく感銘を受けており、絵柄のルーツはそこにある。そして描く内容について。これは10代の最初の方に読んだ夢野久作の『けむりを吐かぬ煙突』『女坑主』といった力強く家父長的・支配的な女性が美しい少年や少女を弄ぶというテーマの歪なエロスに惹かれたからというのが大きいと考えている。またクラムスコイの『忘れえぬ女』のような母性を思わせる豊かな体つきと同時にファルス性を帯びたような冷たく高慢な表情、そして鬼子母神という慈母の愛と鬼としての苛烈さという「母性の恐ろしい二面性」にひどく惹かれていて、そういったファリックマザー的な女主人が美しい少年少女を箱庭の中で飼い殺し歪な教育を与え着せ替え人形として愛でる様にたまらないエロスを感じる。だからそれらを絵という具象で描き起こして、作品の外部に女主人を配置したいという思いがある。教育を授けたいというのには『君たちはどう生きるか』も影響している気がしていて、コペルくんとおじさんのように人生について薫陶し指針を決定する者と教育される者という関係性に美しさを感じるからという理由が大きい気がしている。鑑賞する人にもそういった感情を覚えてほしいし、何より自分が子どもを教え導く人生における母親的存在になりたいというのがある。 

 なぜ自分が作品においてそのような存在になりたがっているかと言うと、どこか根本的に他人に主導権を握られることを恐れており主導権を取りたい欲望を絵で発散しているからかもしれない。また、自分は根本的に自分をよりよい状況に置かれるに値しない存在だと思い込んでおり、他人の世話をすることで自分から目を背けたいという思いもある。そういった性格構造から私の創作観が生まれてきた可能性もなきにしもあらずだろう。

 とりとめなもなく創作について語ってきたが、これ以上は語るべきものもないので筆を置くことにしようと思う。最後にひとつ。私はこれでも自分の創作に魂を注いでいるし、他人の創作についても彼らの魂を尊重したい。もし私に対して創作観を語りたいという人がいたら是非語ってほしい。その情熱に触れられるほど面白いことは人生にないから。

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