なんともならない体(脳、あるいは心)
私は精神障害を持つ。
精神障害、身体障害、知的障害。大きく3つの障害区分があるが、それぞれの中にも分類し切れないくらい、多様な障害のあり方がある。同じ精神障害の人同士でも、どのくらい生活に支障があるか、働けるかどうか。症状の強さはどうか。どのくらい服薬が必要なのか。コミュニケーションにどのくらい問題があるか。友人がどのくらいいるのか。さまざまなステータス(状態)がある。
同じ障害名が付いていても、分かり合えないことがある。私はASDだが、同じASDの人と残念ながら分かり合えないこともままある。二次障害が強いASDだととりわけよくあるのかもしれない。精神障害者は心がいっぱいいっぱいになると、周囲の人に配慮が行き届かなくなる可能性が高い。思春期や下手したらそれ以前の発達段階で鬱病などを発症すると、精神の成熟がそこで鈍ってしまう。ASD者だとただでさえ実年齢より遅れがちな精神的成熟がさらに遅延してしまうのだ。すると、同世代の人たちと話が合わなくなったり、無理して合わせないといけなくなる。無理して合わせると疲れる。この疲労は脳疲労であり、一筋縄で癒せない。一晩寝ればおさまるものではなく、だんだん蓄積していって常に疲労困憊したような状態になる。
そういう困難を抱えながら生きることになるASDの事情に、私は当事者として(定型発達の人たちに比べたら)通じていると言える。しかしこれは、私が生きてきて感じていることだ。同じASDでも、異なるように感じる人もいるだろう。二次障害の有無で人生の様相は大きくことなっている。二次障害を発症していなければ、問題なく就労してバリバリ働くことができる人もいる。ギリギリで働いている人も、働くことがムリな人もいる。発達障害界隈においては、「バリ層」「ギリ層」「ムリ層」という分類すらなされているほどだ。
なんともならない脳は、なんともならない身体を生み出す。知覚は全て脳が請け負っているので、脳が疲労していれば全身がだるく感じ、日常生活を送るので精一杯になる。
もう一つ大きな問題として、進路選択ができないというのがある。私はもうすぐ30歳になるのだが、16歳の頃から二次障害が現れて鬱症状があるので、進路選択を棒に振った。受験勉強をするのが困難で、適当な入れる大学を選んだ。本当に行きたかった大学にもいけなかったし、本当にやりたかった学問にも出会えなかった。今思えば、心理学の周辺学問領域に関心があったと思う。というかこの領域に関心を持ったのも自分が精神障害者だったからに他ならないので、もしASDでなかったら別の選択をしていた可能性が高い。その時に何を選択していたかは正直分からないが。精神障害でない私を想像できないからそれも仕方あるまい。私は人を助ける仕事がしたいと今も切に思う。私は人に裏切られたり、怖い思いをしたり、傷ついたこともあるが、何より弱い人の力になりたい。他者に辛い思いをさせられた以上に、他者に助けられてきたからだ。社会の辛い部分もたくさん知っているが、優しい人たちによって生かされてきたし、いまも生かされている。悲しいことに自分自身が弱者であるから、人を助ける仕事も、それ以外の仕事もできないでいる。そういう人生だったらよかったのに、といつも嘆く。
なんともならない体、脳、心を持って生きることはさまざまな問題を孕む。どうありたい、どのようにしたい、そういう願いを持っていてもそれは叶わない。自己否定感が強くなることもある。二次障害なんてなければ、私は活躍できていたのだろうか。活躍したい。いまこのなんともならない脳をもってしても、私は誰かのためになることをしたい。その前に自分のことをするので精一杯なのに。
もっと建設的な話を書くつもりだったのに、単なる愚痴のようになってしまった。
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