ペットロスに苦しむ
「ペットロス」といえば、犬や猫についてのロスが語られることが多いのだが、私が飼っているのはもっぱらハムスターである。ハムスターは2年ほどで天命を迎えてしまうので、人間の時間に比べてかれらの時間はあまりにも短い。飼い始めてからすぐに大切なねずみちゃんの死を意識せねばならないのはつらいものである。
しかし、私は子どもの頃からハムスターがすごく好きである。なぜこんなに好きなのか分からないくらい、他の生き物に比べても別格に好きなのである。子どもの頃は祖父がねずみを嫌いだったことや勇気が持てなかったことなどが原因で飼えなかったのだが、大人になり、夫と結婚してから飼い始めた。念願のはむだった。
「まめ」と名付けたハムスターをたいそう可愛がった。その「まめ」は、2月前に天寿を全うし、天国へ行った。私は「まめ」がいなくなることよりも、臨終の前に苦しまなければならないことに心を痛め、非常に泣いた。かわいそうで、代わってあげたいが代わってあげられることもできず、もどかしい気持ちで、ただ目の前で苦しむまめを励まし続けた。ぼろぼろ泣きながら声をかけた。
いま何匹かのハムスターを飼っているが、その子たちも老齢期に入ってきて、そう遠くないうちにお別れの時がきてしまう。
書いておいて何だが、私は「別れ」というのが好きではない。個人的に天国を信じていて、地上にて死した者は神の最後の審判を受けて楽園に行けると思っている(クリスチャンである)。聖書に言及はないが、動物にも天国はひらかれており、縁があった動物と天国でまた再会できると信じている。
それにしても残念なことに、私はハムスターをはじめとしたねずみ類が好きすぎて、ペットロスがひどくなりすぎるという欠点がある。愛しすぎているからこそ、失うことが怖すぎる。「喪失」の中には「予期悲嘆」というのがあるらしく、まだ最愛の人(あるいはペットなど大切なもの)を亡くしてはいないが、例えば不治の病などでそう遠くないうちに亡くすことが予測される場合に味わうグリーフ(悲嘆と訳されるが、日本語のそれより幅の広い概念だそう)である。私はこの予期悲嘆がひどく、来るべき「そのとき」のこと、その前駆たる臨終の苦しみを考えて、涙が止まらなくなってしまう。代わりと言っては変だが、実際に臨終を迎え、その愛する対象(大抵はハムスター)がいなくなると、私はホッとする。もうあの子は苦しんでいないんだと思うからだ。
老いたハムスターを眺めて泣く自分自身に耐えかね、私のペットロスの深さはどこから来るのか?と分析してみた。意識の真相を探るにはやはり、幼い頃まで遡るのが望ましい。
振り返ってみれば、未就学児時代にはすでに「死」に対する異常な恐怖があったと思う。第一に思い出されるのは、保育園のグラウンドに横たわっていた野ねずみの死骸だった。その亡骸を当時5歳程度の私は「死体」だと認識できず、無邪気に触っていた。なにかリアルなキーホルダーのようなものだと思っていた。保育士の先生がやってきて私を咎め、そしてそれを触ったらバイ菌が手に付くので、よく手を洗うようにと洗面所へ一目散に連れて行かれた。その野ねずみはそのあと、埋めてお墓を作った。
次に、地元にある動物園に行った時のことを思い出す。あれも未就学の頃だったのではないかと思う。園の中にちょっとした展示室があり、動物の剥製が展示されていた。私は当時うさぎが好きだったので(ねずみの可愛さに気がつく前はうさぎが好きな動物のトップだった)、うさぎの剥製に喜んでいた。とてもリアルで可愛い。しかし、父が言ったと思うのだが、この剥製は、実際に生きていたが死んでしまったうさぎの皮を使って作られているのだという。それを知って私はひどくショックを受けた。いまにも動き出しそうなこのリアルなうさぎの剥製は、いのちを終えたうさぎの生前の姿。いまはもう、動くことはできない。
死には苦しみが付き纏うことも、なにかのきっかけがあって知っていた。家で飼っていた金魚の死もこのころに経験した。なんとなく、前日あまり動かず、元気がなさそうにしていた。祖母がそれを見て、「この子はもうあかんのかもしれないね」と言っていた。案の定、次の日にその金魚は事切れて、水面に浮かんでいた。魚の目などにはもともと感情を感じなかったものだが、それでも生きているときの目はもっといきいきとしていた。いままさに「死んだ魚の目」となったまなこをみて、私は戦慄した。おそらくこの金魚は、きのう動かずにいたとき、苦しかったのではないだろうかと。
金魚は、うさぎは、ねずみは、苦しんだのだと。
私は死を前にした苦しみがもっとも恐ろしい。死そのものはこの世からの救済だと思っているところがあるので恐れはないが、死ぬ前の断末魔、それを思うと体が震えてしまう。
愛している生き物が苦しんでいる。そして死を直前に控えるといよいよその苦しみは増すのではないだろうか。そういう不安が私を襲ってくる。
いま幸いにもハムスターは生きているが、老い、あるいは病を得て、徐々に活力を失いつつある。
私は前述のようにクリスチャンなので、「神様の元にこの子を返すのだ」というつもりで、最期までのひとときを大切に過ごしていきたい。
多分悲嘆には暮れるが、この子達には天国で幸せに暮らす未来があると信じ、今を生きていく。
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