善く生きるための戦い

プロフィールにもある通り、私は精神障害者だ。ASDと不安障害がある。診断名としては「気分障害」とのことだが、自己観察の結果、不安感が強すぎることで抑うつや苛立ちが発生していると思ったので、根本的な問題は不安障害と考えている。じっさい小学生時代に強度の不安からくる場面緘黙症を発症しているので、この自己診断はおそらく間違ってはいないかと思う。
二次障害が顕著に出てきた高校生時代頃から自分の精神構造、つまり、なぜ自分はいま辛いと思ったのだろう。苦しんでいるのだろう。ということを考察することを重ねてきて、「人生とは、善く生きるための戦いなのだ」という考えに至った。
常に今より善い状態になるためには、どう考えたらいいか、どう行動したらいいかを考えて生きている。死んだら楽なのにとは思うが、この諦めの悪い探究心おかげで「死にたい」と思うことはあまりない。しかし現実は難しいもので、いい方向に進むことはほとんどない。いつも脳に振り回されており、気がついたら数ヶ月くらい簡単に経過してしまっているので、時の流れに愕然とすることもある。
大学院の修士課程にいたとき研究の真似事をしていたので、研究のトライアンドエラーは私の人生と実に似ているものだなと思ったりする。
ソクラテスは「善く生きること」とは、「自分の魂を気遣うこと」と考えたそうだ。私もその考えに近いのだろう。理想論であり、高等遊民の考え方かもしれない。日々労働に追われているような人は、お金を稼ぎたい、あいつより業績を伸ばしたい、というような、いわば通俗的なことばかり拘泥するだろう。魂を磨くために、つねに自己と対話し、自分が1番佳いと思うことを選択していきていくなんていう時間的余裕は、現代人にはほぼないだろう。
私は障害者であり、年金をいただいており、家族に扶養されているからこそこのような時間が取れるのである。だから、この生き方を万人に勧めるつもりは全くない。
私は私の魂を磨いている。綺麗に磨けているかは分からないが、磨こうという意識があり、そのために悩み、考えてきたのだ。

最近対話……といえるのか、一方的ではあるが話しかけている相手として、胎児がある。ここでは、照れくさいので「胎児」という飾り気のない呼び方にさせていただいている。
まだ性別も分からないが、この子と出会えたとき、共に生きるとき、この子はどう生きるだろうか。反出生主義に共感する私であるから、それが苦しみに満ちた生であったなら、それは大変不幸なことであり、産んでしまったものとして懺悔するべきだと思っている。
どんな個性を持って生まれてくるか、まずは注視していたい。そして、成長してこの子が苦悩するとき、共に苦悩し、共に道標を探せる存在でありたいと思っている。成長に感謝し、いずれ一人ででも、「善く生きるための戦い」へと挑んでいけるように。
「戦い」とは言っているが、負けるような戦ではない。その戦いには、負けないために挑むのだ。

有用な記事を書きたいと思っているのだが、自閉人間のため自分の人生哲学のようなことをダラダラと書いてしまった。睡眠障害の私が眠れない夜に書くには自分の話が1番いいのだ。
社会問題について書きたいことがいくつかあるのだが、それらを書くには資料を集めてこないといけないので、またの機会にしたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?