出産を終えました。

去る年の12月22日、娘が生まれました。
おそらく私の人生において、最初で最後の出産になると思われます。そのときのことを書きたいと思います。
私は非常に痛みに弱く、不安感が強いのも関係していると思いますが、どのくらい弱いかというと、夫との間に性交障害を起こすほどです。どういうことかというと、はやい話が「痛くて(夫のが)入りません」というものです。外から入れるのと、中から出てくる方、どっちも同じ道を通るので絶対痛いに違いありません。しかも、胎児の方が大きいのです。
だから私は無痛分娩を選択しました。計画無痛分娩で、初産の場合、39週になるころに照準を合わせて、促進剤を使って産むことになります。
私の子宮口は予定の日が近づいてもなかなか開かず、やむを得ず「ラミナリア」と「バルーン」という医療器具を使って無理やり子宮口をこじ開けるというバイオレンスなことをやらざるを得なくなりました。この処置は「痛い」という前情報を知っていたので恐怖していたのですが、「ラミナリア」の方はさいわい、大したことはありませんでした。分娩予定日の前日にラミナリアを子宮口に挿入し、一晩過ごします。最初はやや違和感もありましたが、大した痛みもなく普通に夜を過ごしました。ただし、翌日の分娩チャレンジへの不安からろくに眠れぬ夜でした。
そしてついに、運命の日になりました。12月22日。昨年は冬至でした。暗い時間が一番多い日。私の嫌いな日ですが、よく考えたら、この日を過ぎたらあとは明るい時間が増えていく。そう思えば、いい日だと考えられるなぁと思ったりしつつ、朝を迎えました。
朝食を半分だけ摂るように言われ、ほどなくして「バルーン」を入れますよと言われました。こっちは痛いかも知れない。恐怖に慄きながら処置室へ行きます。まず、昨日のラミナリアを抜かれます。「お、子宮口3センチ開いてますよ!いい感じですよ」との医師のお言葉。なんと、好成績ではないか。心でガッツポーズしたものの、ここで気を良くした私の心を、「バルーン」が粉砕します。バルーン挿入は「めちゃくちゃ痛いし、血がめっちゃ出ました」。思い出したくもないのですが、ヒーと叫んでいたとだけ書き残して、次のフェーズをレポートします。
なんと私は、バルーンを入れてすぐに陣痛がやってきました。最初は、じんじんとした生理痛のような程度。普段ひどい生理痛に悩まされてきた私は、「まぁ、このくらいなら……」と当初思っていたのですが、これがあれよあれよというまに痛くなりました。
人生で生理痛で倒れた時が数回あるのですが(うち一回は救急車を呼んだ。そのくらいひどい)、そのときに匹敵する痛さになってきました。助産師さんが麻酔科医を呼びました。いよいよ無痛分娩に移行できます。痛みから「ほぼ」解放されると思い私は安堵したのです。

しかし……麻酔は私には効きませんでした。正確にいうと、右半身に麻酔が効かない。よく、「初産の人は無痛分娩なのに痛かったというが、実際には無痛とはいえ多少は痛いので、それでもマシな方なんですよ」と言われるが、私の場合間違いなく効いていませんでした。
氷を当てて麻酔が効いているか確認するのですが、左下半身は冷たい感覚がないのに、右下半身は、麻酔を入れていない上半身で感じる冷たさと全く同程度の冷たさを感じるのです!
それでも最初は、「いやそのうち効いてくる……右を下にして横に寝ていれば……」と思っていました。しかし、全く右に効く感じがしない……。

そうしているうちにも促進剤の量は増加します。そして無慈悲に増強する陣痛。私は助けてくださいと叫びましたが、そればかりは誰も助けられません。私が自分で乗り越えるしかない。子を産み落とすまではこの痛みの苦痛から逃れることはない。
地獄のような時間が過ぎていきました。子宮口が10センチに開大すると最大の開きになり、いよいよ「いきみ」を開始するべき時です。子宮口が8センチになり、あまりの痛みに私が「死にたい、死にたい」と叫んでいる頃、助産師さんは分娩室に行きましょうと言いました。
分娩室に移動してからは、ますます陣痛が強まります。淡々と書いているのでおそらく私の感じた痛みを伝えるのは難しいと思いますが、出産後2週間以上経過した今でも思い出すとパニックになりそうになります。トラウマになっています。本当に、いますぐ死んだ方がましだという痛みが、2分おきに必ずやってきます。嬲り殺しにされているような、おそろしい痛みでした。本当に辛く、絶望的な気持ちになりました。
助産師さんは麻酔科医に電話しながら、なんとかならないだろうか、私が可哀想だと言っていました。麻酔のあまりの効かなさ、そして痛みへの弱さ、ベテランの助産師さんが哀れに思うほどの状況だったようです。
ベテラン助産師さんは私の子宮口が最大に開いたことを確認しました。そして、「破水はもうすぐだと思う、がんばれ」と言いました。破水するまでは、いきむことはできません。羊膜に守られた赤ちゃんは出てくることができないからです。早く破水してくれ、なんなら、無理やり破水させる方法が確かあったはずだからそれをやって欲しいとすら思いました。
しばらく子宮口最大の、最大陣痛に苦しんでいました。するとベテラン助産師さんはなんと、「羊水の匂いがする。多分上の方で破水してる」と言いました。なんと、ベテランの方だからでしょうか。破水した羊水がバーッと出てくる状況でなくても、匂いで破水がわかったようです。
ここからいきみを開始することになりました。主治医である産科のお医者さんが呼ばれてやってきました。陣痛が来た時にイキみます。目を閉じてはいけません。息を止め、踏ん張るような感じです。あんまりいい例えとは言えませんが、すごく便秘の時に気張る時の感じです。私は快便傾向でしたのでわかりませんでしたが、とにかく出ろ!と念じながら、下腹部に思い切り力を入れました。陣痛がやってくることを予感したら「いきます!」と謎の合図をお医者さんと助産師さんに言います。すると、お医者さんは私の腹部を押し、助産師さんは多分、赤ちゃんの頭を引っ張る手助けをしてくれます。何回も「いきます」「やります」などと合図を送りました。お二人が適切なタイミングで手伝ってくれるように、それがいいと思いました。後で言われましたが、「冷静だったね」とのことで、ちょっと嬉しくなりました。
麻酔が効かず、かなり絶望していましたが、いきむ段階になると、もう腹を括ったのか急に冷静になれたようです。会陰は切開することになりましたが、緊急帝王切開になることなく、無事に経膣分娩に成功です。無理そうだったら吸引や銚子をやってくれと言いましたが、それもなく、頭の形が綺麗なまま娘は生まれてくることができました。
2530gと、かなり小柄な赤ちゃんが産まれてきました。私は小柄な方で痩せていたので、私のお腹ではそう大きくなれなかったようです。38週と6日でした。もう少し早かったら2500gを超えていなかったということです。そして頭囲を測ると、30.5センチしかありませんでした。あとで調べると、正常に生まれた赤ちゃんのうち、下位6%くらいの頭囲だそうです。私の骨盤を通るためにこの子は自分の頭が大きくならないように調整したのでしょう。そう思えば、親孝行な娘だなと思いました。
というわけで、母体を心配してこの子は小さく生まれたので、今度は私が大きく育ててあげなければなりません。
私は理由あってミルク育児を選択しましたが、いま一生懸命ミルクを飲んで、2週間でそこそこ大きく成長してくれています。

私は当初、反出生主義に共感するような人間でした。精神障害があります。だから子どもを持つべきではないと思っていました。しかし今、子どもが産まれて来たことをたいへん感謝しています。
依然として、反出生主義の考え方を否定はしません。ですが苦しい人生はできるだけ少なくなるよう、社会の役に立ちたいという思いを新たにしています。

最後に、無痛分娩があまり奏功しなかったのは、私の運が悪かったのであり、病院の先生方の対応は極めて実直で、決して腕が悪いとかそういうことではありません。
多くの人は、無痛分娩を選択して、満足のいくお産ができるそうです。私は痛く、地獄のようだったと思いますが、無事に娘が生まれてこられたことが何よりであり、あの痛みを耐えたことで私も、私自身にすこし自信がつきました。
だから、よかったのかなと思っています。

これにて、私の出産レポートをおわります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?