新しい現世の諦め方
画像は何の関係もありません、ただ私が好きなポケモンを合体させたものです(ポケモンフュージョンで検索)。
久々に書きます。テーマは、「世の中はやはり生きづらいので、現在私がやっている現実逃避」という話です。
これまでも語ってきましたが、私はクリスチャンです。より詳しく言えば、ハリスティアニンです(私の所属する教派: 正教会の言い方だとこうなる)。現在は同じ正教会の仲間であったはずのロシア正教会とウクライナ正教会が、例の戦争のおかげで離反状態にあり、悲しい状況が続いています。ネットを見ていると、ロシア(プーチン)が悪いだとかウクライナにも責任があるだとかで喧嘩している人たちもいるのですが、無辜の人の命が失われる事態に一刻も早く終止符を打たれなければならないという共通の目標に向かって全ての人は邁進するべきと考えます。私は一人の人間として、この戦争についてただ人命ができるだけ救助されることを望んでいます。
昨年の七月八日、日本史にあらたな悲劇の歴史が刻まれました。安倍晋三元首相が狙撃されてお亡くなりになったのです。そして旧統一教会(以下統一教会と呼称させていただく)と彼の関係が被告(現在)によって明らかにされ、マスコミも国会も紛糾しました。記憶に新しいことと思います。
私は(安倍晋三氏があのような形で亡くなられたことはあってはならないことは大前提として)、現在の日本の政治の一つの大問題がこれでクリーンになるのでは?と期待した部分がありました。政権与党の大部分が、多かれ少なかれ例のセクトと癒着しているということで歪まされている政治の状況が是正されるのでは?と。ひいては、政治の部分で改善される部分において、少しは自分の生きづらさが改善されるのでは?と。
三ヶ月くらい経った頃、統一教会を解散させるか否かとか、被害者救済法を打ち立てるとか、そういった議論が遅々として進展せぬ状況があることに気がつきました。「もしかしたら社会がいい方向に行くかな?」という(テロに分類されることを契機として、人の非業の死を契機として、このような期待は倫理的に持ってはいけないのかもしれないが)期待から来ていた自分の中での高揚感は、一種の躁状態に近いものでありました。しかし状況が変わる気配はない。三ヶ月後、つまり秋ごろに鬱に転じ、また世の中の生きづらさにメンタルを病む、というフェーズに入ってしまいました。
この頃から、まるでうちに閉じこもって自らを守るように、私はある小説の執筆にかかるようになりました。どのような内容かと言えば、人類があらゆる愛によって救済され、世界は終わりを迎え、メシアによって新天新地が拓かれるという終末論的な物語です。
ところで、終末を扇動する宗教はほとんどが、いや確実と言って良いほどに「カルト」的なものなので、気をつけましょう。私はこの小説を今後どこかで発表するか、しないか考え中ですが、その場合にはあくまでフィクションであり、何らかの宗教思想を布教しようとする目的で書いたつもりはまったくないことを再三強調するつもりです。
秋ごろ、夫の妹さんが近いうちに結婚されるといういい知らせがありました。それはめでたいことであります。
と、同時に私にとって、ぐったりと落ち込むことでもありました。
ん?自分は結婚しているのに?他人が幸せになるのは許せないという性格の悪いやつか?と自分でも不思議に思い、自分は最低なのではと思ったのですが、よく考えたら違うと結論づけられました。
私は、結婚しようが、出産しようが、それを「ああ嬉しい!」と思えなかったのです。夫のことは好きですし、一歳を迎えた子どものこともかけがえのない大切な存在と認識します。しかし、自分の中でそれが、「幸せ!嬉しい!」と感じられないのです。脳がそれに向いていない個体なのだな、と思います。
最低な親かもしれないが、仕方がありません。このような個体に生まれついてしまったからです。多分、人間ではないのかもしれません。間違いなく普通の人間ではないです(あるいは、発達障害の症状の一つ、または、二次障害である鬱の一つ)。
私に比べて、結婚やら出産やらを相手がいないうちから切望する人のなんと幸せなことか。私が結婚したのは夫という人がいたからです。そもそも、それ以前は結婚できない(したくないし、できない。なぜなら、自分の女性性を受け入れるのに難儀していたから)と思っており、世を憂いて修道女を志したほどです。私の洗礼はいずれ修道女になる準備ですらあったのです。
義妹さんの結婚の知らせはいいことです。おめでたいことです。それに比べ、自分はなんと不幸なことか!それを手にしながら、しかも子どもに恵まれておきながら、それらを心から喜びと感じられないとはなんと悲しいことか!罪深いことか!
秋にはこのような絶望もありました。
いつもと違う非常勤精神科医にこの苦悩を告げたら、こんなどぎつい言葉で励まされました。「それは凡人の幸せです。凡人ではないあなたは、他のことに幸せを探すのがいいでしょう」。
ああ、凡人になりたかった!
私は非凡人だ。なぜか精神科医は私を「天才」として扱い、この「凡人」という言葉の上に私がいる、と言いたかったようだ。しかし私は「下」だと思う。私は自信を喪失しているので、自分の才能だとかを一ミリも信用しない。すべてはまやかしであり、人が私を才能があるとか天才だとかいう時、「私は他人を騙している詐欺師だ」とすら思うのだ!
とにもかくにも、昨年秋ごろに、これら二つの絶望ーーひとつに、政治では救われない、あるいは、政治状況は変わらないということ、もうひとつに、凡人以下の生まれつきをしてしまったということーーが私を襲った。
それで、私は小説を書き始めた。一種の防衛規制(ストレスへの反応)だろうと精神科医は私に言った。だから、小説を書くことをやめずにいてよい、ただし睡眠は取るように、と助言を受けた。
少なくとも私が感じるところでは、キリスト教の信仰は、「弱い人のために寄り添ってくれる神」に対するものである。
弱い人ほど神のことを顧みるからである。苦しんでいる人ほどさいわいだというのはそういう意味でもあるんだと思うのである。
私は弱い人なので、神の赦しを受けて、人類救済の物語を描くことで自分の弱い心を守ることにしようと思っている。
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