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[翠雨, 青の通い路]01

エッセイを書こう、と思う。

余白に密やかな日記を書き綴るように。
航跡だけを見遣る、孤独な舟の漕ぎ手のように。

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詩について喋ることは難しい。
いくつかの詩論や詩にまつわるエッセイを読んだことがあるけれど、筆者が詩の深奥について語るほどに、その言葉もまた詩の言葉となってゆく感覚がある。これは必然的なことだ。
虹は、素手では掴むことができない。
明晰な詩論はあっても、明確な詩論など存在しないのだろう。

純粋な詩について応答することができるのは、唯一また詩の言葉であって、つまるところ、無垢な言葉のつらなりということでもある。
無垢であるがゆえに、絶えず震え、揺らぎ、輪郭を変ずる。そうして詩に寄り添う。

*

詩について話すことがあるとすれば、個々の素晴らしい詩たちについて。

作者に直接手紙を書いたり、詩友たちと話したりするのは嬉しいし、楽しい。
生きるうえでの稀有な体験とも思う。

それでも、詩の感想を喋るときには、極力つよい言葉は使いたくないように思う。

私が好きな詩は、すこしでも乱暴に扱えば途端に瓦解してしまいそうな、脆さと危うさをもった詩が多い。
感想としてつよい言葉を羅列すれば、その風圧で詩を損ねてしまう、そんな気がしている。

詩の一つひとつの言葉は実はしなやかで、簡単に崩れたりはしないのだけれど、言葉たちをつかねるのは繊細で緻密な、微妙な手つきによるものだろう。
安易な形容詞一つで、詩の持つ"アウラ"を吹き飛ばしてしまうわけにはいかない。

*

私はかつて或る詩の教室に通っていた。
合評を行う際に、「作品を読み立ち上がってきた"顕れ"について、作者に伝えてほしい」という講師からの話があった。
詩に触れるたび、私はその言葉を思い返す。

"顕れ"アウラ

その一回性について。詩とは、硝子だ。

ゲルハルト・リヒターのアート作品に「8 glass panels」というものがある。題のとおり、大判の硝子板がそれぞれ異なる角度で、直線上に重なるよう配置されている。
硝子は光を透過させ、あるいは反射させ、複雑な像を描く。私と、向こうにあるものとの、迂遠で親しい距離感がそこにはある。

詩は、つねに身を震わせている。
一方で私(たち)は胸に天気を飼う。

硝子という詩の身体。

雨滴が硝子を這い、夕景の街の輪郭をほどくこともあるだろうか。
あるいは近づけば、かえって冬の吐息で曇るもの。
光の配合で鏡となり、己の姿を見る夜半もあるかもしれない。
そして時折、強烈な光線が彼方から一直線に、私にむかって差す朝もある。

詩と私の関係性は、刻一刻と変化する、再現性のない触れ合いだ。
定着させることのできない、光の揺らぎ。

もし、いくつもの、硝子の層の最果てに詩情ポエジアというものがあるのなら、その"顕れ"とは、私が詩に触れた一瞬間の諸条件によって初めて規定され、齎されるものなのかもしれない。
詩は、詩情ポエジアのもっとも優れた採光器であり、と同時に変換器でもある。

*

詩は、決して完成しないパズルのようなもので、読むたびに違うピースが色づく。
結果として、浮かび上がる景色というものも違ってくる。
それはあたかも、筋書きのない逍遥のようでいて、目的地のないロードムービーを見ているようだ。

部屋の灯を消して、ぼんやりとモノクロームの映画を眺めていると、こんな場面はあったかと思う。
脈絡のないような、断片の積み重ねだったとしても、突如恐ろしいほど生々しく響く場面がある。夢のような歩行のなかで、現実に揺り動かされるような心持ちがする。

胸に天気を飼うこと、それはすなわち生であり、現実の諸相を反映している。
私たちもまた、心身を揺らしながらも今ここに立っている。

詩を読むことによって、現実の諸相は詩情ポエジアを屈折させ、その一方で、日常に表出する美やかなしみを調節する。
詩を読むことで、循環は起こる。

詩によって変容した現実を生き、生活のなかに潜む新たな美やかなしみの側面に気づき、そうして懐かしみつつかの詩集のページを繰ると、詩の"顕れ"は変わっている。
自分の生が詩の余白、硝子の面に照射されて、詩情ポエジアはまた鮮やかな屈折を見せる。詩にこめられた別の秘密を、囁くようにして教えてくれる。
その秘密が、見る筈のなかった現実を再び繙く。

この、繰り返しこそが詩を読むという、美しい営為なのだと思う。

今日、あの詩について抱く印象が、明日には変わっているかもしれない。それでいいのだと。
むしろ変わっていくことによって、その印象を詩友に語るなどした記憶が、爽やかな標石となる。

*

詩を語ることは難しい。
詩を評する、論ずるという行為を、その不可能性とたたかいながらも成し遂げてきた諸先輩の方々。畏敬の念を持つとともに、まだまだ学ぶべきことは多いと感じる。
詩について、もっと知りたいと思う。

最後に付言すれば、詩と向き合うということは、複雑な回路を辿りつつも、やはりその詩人と向き合うということだ。

幾度も硝子の木叢に分け入り、様々な光のありようを眺め、都度異なるうつくしさの相貌に溜息をつくだろう。
そしてまた、私は現実へと折り返してゆく。

(了)

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ここまで読んでくださった方、こんにちは。
お読みくださり、ありがとうございます。

ここ最近、エッセイを書きたいと思うことが度々あり、長い文章をしたためることにしました。
他のSNSに比べ、このnoteはまだ静かで、ゆったりと文章が書けるような気がしています。

現代詩を巡る言説は否定的で冷ややかなことが多くて、いつも「難しい」と言われているように思います。私の作品もそう言われます。
ただ、(当たり前ですが)「難解な詩を書いてやろう」という方はいないはずで、各々達成したいものに向かって書いているだけなのだろうと思います。

現代詩それ自体について、ビギナーである私が言うべきことはなにもなく、兎角今は求道者の目で淡々と書き続けたいという一心です。
無論、現代詩の現状を憂えて、情熱をもって発信されている方も多くいて、その人たちには尊敬の念を持っています。ありがとうございます。

詩を読むということは嘘ではなく、本当に難しいことで……。
ただ、難しい!と思っていた詩集でも、ある日突然チューニングが合うようにして、読めるようになってしまうときがあります。そうして、深い感動を運んできてくれます。

このような経験から、今回のエッセイはつくられました。
いまは「タイパ」という言葉があるぐらい、皆どこか急いている印象を受けますが、だからこそ、詩とはゆっくり時間をかけて向き合っていきたいなと、自戒もこめて。

エッセイは[翠雨, 青の通い路]という統一タイトルをつけました。これからも、連番だけ変わるようなかたちになります。
(大好きな詩人の方が、同じような形式でエッセイをnoteに書いていたので、真似しました。ああいうのが書きたいな……と!)

私の詩は、ほとんど全篇に水のモチーフが出てきて、特に雨の描写が多いのですが、「翠雨」とは青葉に降る雨のことです。
翠というカワセミの意もある、どこか水晶質のような美しい字と、生命の煌めきを含む意味に惹かれてつけました。

「青の通い路」は僧正遍昭の有名な歌「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」から取りました。
私にとってのポエジアとは、僧正遍昭における「をとめ」のようなものだなあと、思います。中学生の頃からずっと好きで、いまも好きな歌です。

反語的なかなしみというか、反語的な美の形式は、ずっと私の胸の中にあるような気がしています。雲の代わりに配置した「青」には、そのイマージュを込めました。

怠惰な性格ゆえ、この一回のみで終わりかもしれませんが、気が向いたときにまた、詩のことに限らずエッセイを書くつもりです。(「詩のエスキス」というTwitterで始めた企画も、一度きりで更新できていません……。)

少しでも、読んでくださった方に届くものがあれば嬉しいなと思います。
よい秋をお過ごしください。

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余談ですが、画家のフランシス・ベーコンは、額装するときにあえて反射率の高い硝子を用いたそうです。
先日行ったある写真展も硝子の反射率が異様に高く、結果自分の顔ばかり見ることとなり、げんなりした際にそのことをふと思い出しました。

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