6/2「うたの日」選評
題『植物』
大勢が行方不明になった家でせっせと桜の木を植えるひと
/かんぬきたくみ
面白い。家に住んでいた人が大勢行方不明になったのか、訪れる人が大勢行方不明になったのか。桜の木って何本もぽんぽん植えられるようなものじゃないし、この「せっせと」は(複数本植えるのだとしても)一本に対する働きぶりなのだろう。この桜の木が、次の行方不明者を生んでしまうんではないか、そういうことをこの「ひと」は考えているのか、いないのか。梶井基次郎の『櫻の樹の下には』は、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という一文で始まるが、行方不明者ありきで桜の木を植えていると考えると視点が逆転するような感じがする。(森)
題『カタツムリ』
カタツムリ殻は体の一部だと話す貴方を懐かしむ梅雨
/夜烏
カタツムリの殻の中は空洞ではなく、内臓が入っており、しっかり体の一部分を構成している。昔、それをどこかで聞いたことがありましたが、へえそうなのか、位にしか感じませんでした。この歌では、単に知識を得たわけではなく、それを「話す貴方」から聞いています。「貴方」を通過することで、貴方のことも見えてきます。人は他人に対して仮面を被ったように振る舞うことがあったり、保身の為に自分の中の殻にこもることがあったりしますが、その仮面や殻、それも自分自身だと肯定するように見えます。「貴方」にも殻なるものがあり、それごと愛して欲しいと主体に暗に言っているようにも感じられるし、逆に、主体に殻があって、「貴方」が主体へ殻ごと愛してあげるよ、と言っているふうにも思えます。/愛を考慮に入れましたが、別に恋人じゃないかも知れません。「貴方」は、友人かもしれないし親かもしれません。それによって「懐かしむ」のニュアンスは変わってくるでしょう。/ただ、「懐かしむ」という表現は、想像しやすいですが、やや直截的なものなので、それを言わずに懐かしんでいる様子が伺えたらより良くなるかと感じました。加えて、「梅雨」というのは、その時期になったから思いだす、というきっかけかと思いますが、やや状況の説明のために、ぽんと置かれた感があり、そこはもう少し迫れるかもしれないと思いました。/最後に、「から」と「からだ」で、文字の上でも、殻は体の一部だなと思い、歌意とは関係ないですが面白いなと思いました。(丸田)
題『起』
少しだけ君より早く起き出して静かに寝顔を観察している
/若紫音佳
「少しだけ」「起き出して」「静かに」「観察している」のはすべて(ひっそり)の美学という気がして、たしかに(ひっそり)で短歌を成立させることは簡単と言えば簡単なんだけど、「しずかに寝顔を」「観察している」の8-8が、ぎりぎり字余ることによって表現として堪えている感じがして、そこに惹かれました。
「場」の話をするのはフェアではないかもしれないけど、この「うたの日」で特に顕著な「みんないいことを言おうとするし、いいことを言った方が評価される」という状況の中でこういう小さい小さい方向に進める感じ、しかし「君」ではあるから状況としては結局ありがちだし、前衛的に何かを言ってやろうというわけでもないのに、そこ(ひっそり)に留まる姿勢になにかハートの強さのようなものを感じてしまいました。(青松)