6/7「うたの日」選評

題『鹿』
あまくものスクランブルを見下ろせば往き交う傘の鹿の子文様
/芦刈由一

雨のスクランブル交差点を見下ろして、人々のさす傘を鹿の子文様に見立てた歌。現代的な景を和柄に喩える力加減が心地よい。「あまくもの」は「雨雲の」「天雲の」の二通りに読むことが可能で、前者は雨が降っていることを述べる。後者はもともと「たゆたふ」などにつく枕詞で、傘が往き交う様子を導くはたらきをすると同時に和柄のイメージとも響きあう。機敏なイメージの「スクランブル」にかかっているのも少し面白い。「傘」としか言っていないが「往き交う」と述べることできちんと複数の傘を想像させることができている点も地味ながら見逃せない。メタな話になるが、「鹿」という題から「鹿の子文様」を発想することに一つ目の小さなジャンプがあり、その上で、何かの物に鹿の子文様が使われている様子を描くのではなく、鹿の子文様を比喩として用いることは二つ目のジャンプである。一つ一つのジャンプは常識的な範囲のものであるが、複数重ねると題詠の場では目を引く要素となるように思う。(森)

題『果』
水は揺れる雲のはたてを風わたるおれの心がへんになつてる
/くわい

上の句の叙景が、もはやうっとうしいくらい凝縮されていて、ぱっと見える要素(水、雲、風)だけでも随分自然が溢れています。水が揺れること、雲の果てを風がわたってゆくこと、確かにそれは綺麗で悠久さを感じることですが、ここまで風呂敷を広げると、下の句でなかなか収めが付きにくそうだと思っていました。そして下の句を見て驚きました。/独り言のような「へんになつてる」は、自分の中でもまだその気持ちの整理がついていない、ぱっと口を吐いて出た言葉という感があります。生きていて、自分のなかにある「心」を感じることはたまにあるものですが、「へん」だと気付くことはなかなか無いです。自分でも制御が出来ていないまま、勝手に心が動いている。その主体の発見(恐ろしくもあり、なんだか素敵な出来事の予兆のようでもある)が、活き活きと言葉に表れています。/下の句だけでも、一行詩として成り立つんじゃないかと思うくらい、魅力的な言葉ですが、上の句と繋がることでまた迫力が出てきます。恋愛をしていてとか、誰かに怒られて心がおかしくなることは簡単に想像できるものの、悠久な自然のなかで起こるというのが不思議です。自然が美しくて変になったとはいっていない、ただ上の句はそれぞれがそれぞれとしてあるという表現なだけです。この''何故''が言葉に表れていことが興味を惹かれます。おそらく主体としても勝手に心が変になったものだから、理由が分からないんでしょう。/自然の遠さと、心の近さ、そして遠いものはいつもと変わらないのに、近すぎる「おれの心」がそれに触れて変になる。ぽつんと立ち尽くすような主体、へんになった心を通過して見える自然は、どこまでも美しいものだと思います。想像が雲のように膨らむ、素敵な歌だと思いました。(丸田)

題『アウト』
なぜ道があるかといえばたくさんのコースアウトに備えて、ですよ
/まるち

「、ですよ」 がいい。ありがとう。嘘でも嬉しいよ、という気がしてくる。言ってることはしゃらくせえ!って感じなんだけど、謎のおじいちゃんっぽい語り口が「ありがとう」感を与えてくれる。

「なぜ道が」でかってに自分で自分に問うているのもおもしろい。コースアウトに備えているのは道なのか、あなたなのか、聞き返してみたい。(青松)

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