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負の感情は”神様”に任せればいい。

こいつは絶対許さねえ

と思う相手はいる。一時的にMAXの怒りでそう思い、時が過ぎれば「まあ許さんけどどうでもいい」くらいになる。恋人にちょっかいをかける人間やパワハラセクハラ上司。私の人生から退場してくれればそれでいいのだ。

が、人生を通して「こいつは絶対許さねえ」という人間もいる。血のつながりがあったり近い存在だと、縁を切っても、生活の中でちらつく存在。一生癒えることのない傷をつけられ、二度と取り戻すことのできないものを奪った存在。

怒りは二次的感情で、多くは自分を守るために生まれる感情だ。
憎悪もそうだろうし、不安や苦しみ、悲しみといったネガティブも自己防衛のために現れる感情なのだと思う。

だから、怒ることも憎悪することも、不安になったり苦しんだり、悲しみを抱えることは完全になくさなくてもいいと個人的には思っている。それもまた、私という人間の一部だからだ。「高潔であろう」「もがいてでも自他を幸福にできる人間になろう」と思えるのは、負の感情や出来事と向き合っているからであり、自己肯定感につながる。

だがしかし、とにかく疲れる。
消耗する。
老ける。

負の感情が長引けば、自己肯定感を超えて歪んだ思考を生み出しかねないし、破壊的になってしまう。抱えてもいいけれど、いずれは卒業、あるいは幸福に向けて建設的な人生を歩むための礎にするなど、プラスの役割も与えでもしない限り、毒がまわってしまえば大変危険だ。


でも、多くの人にとって苦しみを手放すことは容易じゃない
うまく付き合えたら病気になんてならないし、この世から宗教は消えるだろう。


1.”理不尽さ”の向こうには何があるのか?

苦しみの根源、それは”理不尽さ”だ。あまりにも不条理だから苦しむのだ。

どうして私が?

この社会は「自己責任」という言葉が大好きだけれど、人間はたった一人で生きることができないのだから「自己責任」もクソもあったもんじゃない。社会生活の中で生まれる苦しみの多くは、その社会構造に問題があることがほとんど。

根本問題は、本人だけでは解決できないのだ。

生まれる家は選べない。運やチャンスも選択肢がなければ得られない。挙げ句の果てに、真面目に生きていても、たまたま破壊的な人間のそばにいた、社会が悪い方へ転がったというだけで、暴力の対象になったり何かを失うこともある。

自分のせいじゃないから苦しむのである。
自分を苦しめる”悪”がのさばり続ける限り、理不尽さは続く。
その理不尽さが続く限り、怒りや悲しみ、憎悪と苦悩は続くのだ。

生きながらにして地獄です。
血の涙を流しながら、のうのうと楽しく生きている”悪”への復讐心を漲らせながらも、自己嫌悪する己もいる。心身を患い、生活や人間関係は思うようには進まず、もがき苦しんでいるのに、いよいよ”悪”は栄華を極めるようにすら思えるほど幸せそうにしている。

許すまじ!この世に神はいるのか!

と思いながら生きてきました。
断罪を求めた結果、うやむやにされる。私一人が黙っていれば平和なのだと諭される。お前一人のために多くを不幸にしてよいのか?お前にも落ち度があっただろう。

性被害に遭い、泣き寝入りさせられる。
パワハラやいじめの実態を隠される。

法治国家に生きる人間として屈せず、断罪を求め、法のもと社会的制裁をくわえる。それを重ねていくことで社会から”生きづらさ”は減っていくはず。なんだけども、実際にはとても難しい。

me too運動での告発する勇気に涙したけれど、それでも私は口を開いて真実を第三者に言うことができない。書くことはできても、この口を開いてこの声に乗せて断罪を求めることはできない、今になってさえも。

そこには”諦め”と”絶望”、”共感の虚しさ”と”恐怖”があるからだ。

誰にも理解してもらえない。寄り添ってもらうことの不可能さを実感すると、壮絶な”孤独”が訪れる。どんなに親しくても、たとえ愛し合う関係でさえも、この痛みや苦しみを理解してもらえることなんてない。

一人で抱えるしかない。

そう悟った瞬間に訪れるのは、暗闇だ。
足元も見えないほどの暗闇。後ろにも前にも進めない。

その中で生きて前に進むためには、”怒り”が活力になった。炎に薪をくべるように、怒りの正体を知ろうと向き合った。どうしてこんなことが起きたのかと考える。答えが出ない時は専門書を集めて読み漁った。答えが出るまで探した。

人を傷つける弱さは、社会の歪みだ。

たまたま私は、社会の歪みによって弱さを抱えた人間の苦しみをぶつける的になったのだ。暴力の矛先となった私の後ろに立つ”悪”は、人を傷つける弱さと暴力の連鎖によって生まれた。その連鎖の背景にあるのは社会構造の歪みだ。

知って腑に落ちた。そして絶望が深まった。

SO WHAT. だから何よ。

私に社会構造を変える力もないし、なんで被害を受けてボロボロで力もないのに、傷つけてきた相手に同情もし、社会問題を考えなければならないのか。そんな元気はねえよ。

理不尽さを知ったその瞬間から”理不尽さ”に取り憑かれてしまった。


2.「ヨブ記」に学ぶ徹底した苦しみの最果て

ここに来て唐突に宗教的な話を持ち出してきた…こいつはやべえぞ…

と思われた方もいらっしゃるかもしれません。が、あいにく私はキリスト教徒ではありません。親が仏教徒なので子どもの頃は真面目に信仰していましたが、理不尽さとぶつかり「ちゃんちゃらおかしいや」と全てを投げ捨てました。

大抵の人は理不尽さとぶつかり、宗教と出会うもの。救いの手を求めるからです。

が、私は「救いの手」なんて信じなかった。そんな手があるのなら悲劇は起こらないはずだ。バカタレ、ちゃんと仕事しろ。しないものは信じねえぞ。とスレにスレ切ったわけです。

と言いながらも、自分でなんとか自分を救おうともがいていました。だから、客観的になれば立ち直れるかと思い、学術書や専門書を読み漁ったわけです。でも客観的になったところで傷は癒えなかった。知ることができてよかったし、幾分痛みを誤魔化す薬にはなっても、理不尽さに打ち勝つ力は得られなかったからだ。


当時、文系の院生だった私は何かのきっかけに『ヨブ記』を知ることになった。旧約聖書や聖書のエピソードではかなりメジャーな物語で、心理学の理論研究の対象にさえなっていたけれど、まるでご縁がなく知らなかった。

実際に読んでみると、まあひどい。

神様を信じさせる話を集めたロングセラー本に「なんでこれ掲載許可したの?」と思うほど、神様に対して「ひどい」と感じさせるエピソードなのだ。

ずいぶん昔に読んだので間違いもあるかもしれないが、かなり簡潔に要約してしまうと、ヨブという善良な人間が神と悪魔のゲームに巻き込まれる話だ(確か)。悪魔が神に唆すのだ。「信仰心があついというのならどんなに不幸になっても信仰を捨てないはず。実験してみようぜ」と。神の承諾のもと、その実験対象に選ばれたのが善良なヨブ。
可哀想なヨブは、信仰心があつく誠実に生きているという理由で、家族を次々と失い、職も失い、挙げ句の果てに謎の皮膚病で見るも無残な容姿になって苦しまされる。あまりにもひどい。
そこへお節介焼きがきて、ヨブにあれこれ説教やご巧拙を垂れるわけです。このへんで記憶が曖昧なんですが、とにかくヨブはついに神に激怒し、天に問うわけです。なぜ私なんだと。
ヨブは非常に賢く忍耐力のある人で、論理的に物事を考え、これほどの不幸にありながら見事な正論を並べられるほど、超論理派。それによって非の打ち所のない”理不尽さ”が際立つわけです。
そして、ついに神が登場。
一雷。
神「お前は何様だ」(私の解釈)
ヨブ、改心する。それに神は頷き、全てを元どおりにしてヨブは再び幸せになったのでした。めでたしめでたし。

ちょっと待てーーーーい!!!!!!

ねえ、ひどくない?ひどすぎません?あまりにもヨブが可哀想すぎませんか?!と悶絶し、何かを見落としたのかと何度もこの物語を読み返す。何、何なの、どのあたりにどんなメッセージ性があって「ああ、やっぱり神は偉大だなあ、信じよ」ってなるわけ…と読み返した。

何なんだ、この物語……
何を教えようとしているんだ……
何を解釈しろってんだ……

数日、数ヶ月、そして数年。

自分の苦しみと向き合い、付き合いながら生きていくうちに、この物語がどれほどリアリティのある話なのかと、じわじわと自分なりに解釈するようになった。


3.”理不尽さ”の先には何もない

キリスト教徒ではないので「贖罪」という概念が微塵もなく、読んでも全く理解できなかったため、結局のところ、自分の実体験を通してしか”理解”できなかったが、「ヨブ記」は大好きな物語のひとつになった。

真意はわからないけれど、物語の向こうには、皮肉屋で冷たいけれど人間味溢れる老人の存在を感じる。

矛盾を抱えながらも生きていかなくていけない、それなら皮肉に笑ってやればいい、でも大切なものは言葉にせずとも大事にして人生をかけても貫かなくちゃいけない。

その老人はそう言っているように思う。

どんなに善良で信仰心があろうとも”不幸”には見舞われる。
そこに理由なんてない。
むりくり理由をつければ「悪魔のゲームに引っかかっただけ」。

”理不尽”とは、そんな遊び半分の悪意で生み出されてしまうことすらある。

私たちに何ができるだろう。
運命に翻弄され、苦しみの中で孤独を深め、さらなる不幸に耐えて生きなければならない。誰も助けてくれない中、どれほど正論を並べたてても癒されることのない心の傷。

神は一喝する。「お前は何様だ」(私の解釈)と。

どれほど賢く善良で正当な人間でも、人間でしかない。

人を呪おうとも、そんな力はない。
悪魔になっても傷は癒えないだろう。

私が「許さない」と思おうが、私が天罰をくだすことはできない。

天誅!と叫んで斬り捨てたところでお縄にかかる。同じ目に遭わせたくても遭わせられない。法治国家がそれを許さないからということもあるが、私が善良であることを貫くためには、誰かを罰することは私の倫理に反することになるからだ。

だから、私は「許さない」という気持ちを持ったり言葉にすることはできても、現実に「許さない」ことを形にすることはできない。神様ではないからだ。残念だけれど人間である限りは無理。デスノートを拾う天才が悪魔になっても結果は見えてるのだ。

仏教にも「因果応報」という言葉がある。日常的にも聞く言葉ではあるが、私の大好きな言葉だ。何に対しても信仰心がない今でさえ、生きる糧になっている。良い行いも悪い行いも、全ては自分に戻ってくるという意味だ。簡単にいえばブーメランなわけだが、そのブーメランがいつ戻ってくるかは投げた自分でさえわからない。

神のみぞ知る、なのである。

因果応報は、現実的だ。傲慢な人はさらに上にいく傲慢な人にぶち当たることで己の傲慢さを知るだろう。泥棒は物を盗んで捕まっても己の罪を悔やむか疑問だが、自分の物を盗まれれば懺悔するだろう。他人を幸福にする人は他人から好かれ、幸せにしようと思いを返してもらえるだろう。

「因果応報」は論理的で納得のいく話で、「ヨブ記」はかなり乱暴な話だけれど傷と付き合いながら生きる経験者なら納得のいく話なのだ。

ここからは、更なる私の超解釈だ。

この傲慢不遜で恐ろしい神様は、こうも言っているのかもしれない。

「だから、その業も全て神である私に託しなさい」と。


4.ロッカーに気持ちを預ける感覚でいい

ほどほどの怒りは生きる活力になるけれど、長引いたり過度の怒りは身を滅ぼす。

それでも私たちには、手放すことのできないものだってある。
時間の経過とともに折り合いながら生きていくしかないのだ。

母が妊娠している時から父は隠れて女遊びをしてきた。仕事を理由に子育てはほぼしたことがない。家にいないのが当たり前の人だった。買春・愛人・パパ活、なんでもありだ。バレてからは頭がいかれたのか、娘である私に「キスするってことは好きってことだよね?」とパパ活の悩みを相談するくらいだった。

壁のそこかしこに血痕があるような壮絶な戦いを経て、何事もなかったかのように暮らしている。

人間とはそういうものなのだ。

傷つけた者も、傷ついた者も、時間の経過の中で生きていくための折り合いをつけ、日々の生活を営んでいく。人間の最大の強みであり、最大の弱みでもある”記憶”を抱えながら、うまくぼかして生きていく。


「罪を憎んで人を憎まず」なんて私は言えない。

そんな人は”聖人”だ。アーミッシュの子どもたちが殺害された事件が起きた時、被害者の父親は加害者の死刑を求めなかった。その話を本で読んだ時、私の胸は震えた。混乱で震えたのかもしれないし、その真似のできない強さに感動を覚えたのかもしれない。

法で裁くことを私は諦めた。

疲れ切ったからかもしれないし、断罪する相手が24年間、苦楽を共にし親しかった兄だったからかもしれない。兄を愛する両親の思いを知っていたからかもしれない。家族を失ったその先にあるものを考えられなかった。母からの児童虐待、両親の”生々しい男女”まで公のもとにさらして、私に残るものは何だろう、と恐れたのだ。

私に残っているのは「私の人生」だけだ。
今ならその答えがわかっているけれど、24歳だった私にはわからなかった。

誰も彼の罪を裁かず、何もなかったことになる。
「いい年になっても結婚もしない娘がいて親は大変」「娘を自由にしている私たちは寛大」「息子はちゃんと所帯を持って良かった」という家族しかここにはいない。私ひとりが覚えていても「頭がおかしい気の毒な娘」でしかない。

だから私は心に誓ったのだ。私だけは彼の罪を死ぬまで忘れないと。彼の罪が裁かれる瞬間を私だけは見届けてやろう。たとえそれが地獄の果てだとしても。地獄まで追いかけて、その塵さえもこの世から消え去るのを見届けよう。
それが、断罪しなかった私の罪への償いになるからだ。


救われたいのは私だ。
その真実を認めたくないから、私には憎悪が今でも必要なのだ。

その覚悟を持つのは結構しんどい。当然だ。人を呪わば穴二つ。穴の先は地獄。それほどの覚悟を持ってようやく、私はこの苦しみを抱えて自分の人生を歩もうと決心できた。


彼を幸せにするのは、私の柔らかな面。
私が笑い、彼の冷えた手を温めれば、彼も笑い、私の手を温める。

私たちはそれほど強くない。
だから、互いに励ましあいながら、楽しく自分たちの細やかな幸福な未来を目指して、小さな船で不器用に舵をこいでいる。

神は信じていない。仏も。八百万の神も。
でも、誰かに向けて私は善良で誠実に、このちっぽけな人生を自分なりに進むことを毎日誓う。矛盾だらけだ。未来に歩みながら遠ざかっていくべき過去も抱えて未来に持ち込むのだから。優しく幸福な人間になり、他人を幸せにしたいと願いながら、一方では他人に天罰がくだるのを見届けたいと願っている。

仕方ない。”人間”なのだからできることなんて限られている。
やれることは精いっぱい生きることくらいだ。

答えのない悲しみも苦しみも怒りも。
私を支える力であるなら抱えて生きよう。
毒になるなら”神様”に預けてしまえばいい。
だって神が与えたものなら、預かってくれたっていいわけでしょう。

試練なんて要らないのだ、幸せになるのに。
不幸があったから幸福になれたなんて論理、私は認めない。
けれど不幸の中で差し込んだ光に感謝し、素直な心でいま手の中にある幸福を大事に育てたい。

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