ラクになる言葉、苦しくなる言葉
正直、クリスチャン関連の本を読んでいると
時々、気持ちが苦しくなるような言葉に出会うことがあります。
聖書を読んでいてそういう事はほぼ無いけど。
やっぱりクリスチャンにHSPが少ないから、
合わない表現があったりするのかな。
私が苦しくなる言葉とそれに対応しそうな
ラクになる言葉(こっちはビジネス関連の文脈で語られてる言葉)
を紹介します。
楽になる言葉
苦しくなる言葉
「置かれた場所で諦めず、最善を尽くすことで、幸せになりなさい。それがきっとあなたの周りの人をも幸せにするから」
という意味で、
「置かれた場所で我慢しなさい」ではないようだけど。
それにしても、この言葉を言われたら苦しいなぁと思っていた。
しかし、元になったラインホルト・ニーバーの詩を調べてみると
えっ、「神が」なのね。「God has planted you」 なのね。
そうなるとクリスチャン的には、意味合いが変わってくるし
クリスチャンじゃなくても、結構ニュアンスが変わるのでは?
やっぱり、「置かれた場所で咲きなさい」だけでは
「今いる場所で我慢しなさい」という意味合いに聞こえるし
なんで、題名に「神が」を入れてくれなかったのかな…。
この題名、意味合いが間違って伝わって
苦しくなった人は多いんじゃないだろうか。
「咲きなさい」というのも、翻訳すればそうだけど
命令されるとなんともいえない「しんどさ」がある気がする。
どうしたらいいだろう。
「神が私を置かれた場所で咲くことにした」では題名として長すぎるし、
「この場所で咲くことにした 〜神が私を置かれたから〜」
あたりなら苦しくならなかったかな。
クリスチャンなら、今いる場所が苦しい場合に
本当にここは神が置かれた場所だろうか?と祈れる。
クリスチャンでなかったとしても、神が置かれたかは分からないよね。って
思えるはず。「神が」と付いていれば。
でも、付いてないとその発想ができないかもしれない。
(もちろん、この本を読めば分かるはずだけど。)
クリスチャンではない場合、この「咲く」という単語の
ポジティブな感じが、余計にしんどさ加減を増している気がする。
我慢して幸せそうに明るくふるまえという感じがして。
詩の中では、咲く=幸せに生きることと言ってるのに。
考えすぎかな。
クリスチャンではない日本人的な受け取り方で、
しんどくない表現をするとしたら
「ご縁のあった場所で頑張ってみたら?」
あたりかな。
ニーバーの詩の意味とは違ってくるけど、間違って受け取るぐらいなら
まだこっちの方がしんどくない。
ダメだったら、ご縁が無かったって言えそうだし。
ということで、クリスチャンの私としては
苦しくなる言葉だと思っていた「置かれた場所で咲きなさい」を調べることで
苦しくならないニーバーの詩と出会えました。