三宮一貫楼多店舗化と借金の相関関係
まずはこれらの記事↓↓↓を読んでいただければ、
より理解が深まると思います。
とくに3番目の記事においては多店舗はよくない文脈で書いているのになぜ?
そこの説明を本記事でして行きたいと思います。
まず莫大な返済をするには莫大な原資が必要になってきます。
それには返済開始当初の売上では賄えないとなり、必然的に流れは多店舗化に傾いていきます。
ありがたいことに当時(平成2年)、百貨店からのオファーが心斎橋大丸を皮切りに西神そごうと立て続けにありました。
そうなるとバイヤーさんもネタを探している部分がありますので、見つけられやすくなります。
翌年には山陽電鉄が手がける山陽明石グルメファクトリーへ出店の流れから姫路山陽百貨店へも出店します。
施設の方からオファーをいただけるメリットとしては、什器以外の設備を施設側にほぼ作っていただけるということがあり、イニシャルコストを抑えての出店が可能になります。
先代はそこに味をしめて、来るオファー来るオファーをさして吟味もぜずに次々と受けて店を出し続けていきます。
計画もなくそんな出店をしていたら絶対に人が間に合わなくなってくるところ、先代はウルトラCを繰り出してスタッフの穴埋めをしていきます。
どんな術か?単純に言うとスカウトと友人のコネです。
スカウトは当時うちの家に来ていた喫茶店の出前担当の愛想のいいオバさんがいつの間にか西神そごう店の店長になっていたり、
後の川西モザイクボックス店(平成8年出店)のフロアマネージャーも馴染みの和食チェーンで先代のお眼鏡にかなった接客をした方を高額のサラリーで引き抜いたりと、なりふり構わぬ手法をとっていました。
友人のコネについてはさらに最悪で、先代の友人で商売をダメにする人がかなりおられて、元来親分肌の先代はその人たちにも仕事を与えていました。(商売ダメにする人には相応の理由があります)これにより、
華麗なる素人集団の出来上がりです。
そんな骨格のないところに素人という肉を付けても上手くいくはずもなく、母親の言うところの「地震が店を潰してくれた」という言葉に繋がっていきました。
当然そこには姉(現取締役)、兄二人(現社長、専務)もバリバリの労働力として活躍していました。(数年後に私も合流)ここがなければ状況はもっと悲惨だったと思います。
かくして最大12店舗まで増えた三宮一貫楼でしたが、売り上げはなるほど上がっていきましたが、それに比例して経費も増大し、莫大な返済に資金を使うとほぼほぼ何も残らないような状況に陥っていきます。
当時の主要な取引先に支払いのリスケをお願いしたり、数千万円単位の役員借入を実施したのもこの時期であります。
取引先で一番長いリスケは6カ月だったと記憶しています。
今の私でもその交渉はキツ過ぎて決してできません(汗)
当時の先代役員が、どれほど鬼気迫る思いで経営をしていたかが分かるエピソードの一つですね。
書いていて息苦しくなる思いがしてきたので、今日の所はここまでにしておきます。ありがとうございました。