暮らしやすさと引き換えに失ったモノ
1月27日。北九州市長選挙が行われたんだけど、結果よりも衝撃的だったのは投票率。過去最低だったということに正直な感想をいえば「どうした?北九州市民?」でした。
大牟田市出身の僕はいわゆる「Iターン組」北九州市に引っ越してきたのは今から15年ほど前。妻の実家があるということで、興味を持ったのがきっかけ。商売するのに程よい人口、環境を探していたから「北九州はいいかも」って目でこの街を見ていたね。独立してレストランをすると腹決めて北九州に来た。北九州での暮らしは特に不自由なこともなく都会過ぎず、田舎過ぎないちょうどいい街だと思っている。
そんな北九州市の市長選。これからの北九州市をどんな街にしたいのか、出馬を決めた各候補者の話を興味深く聞いている自分がいた。僕は「まち」に関心がある。常にそこにある「まち」という存在に、、、
今から1年ほど前、大牟田市の中心市街地活性化マネージャーの公募があった。育った「まち」の危機、そう感じた僕はすぐにアクションを起こした。一次選考を通過、最終選考プレゼンの機会を頂けた。結果は見ての通り。
しかしこの経験したことでより「まち」への関心が湧いてきたね。
自分たちが暮らす「まち」の未来を、これから「まち」で暮らす人々の希望を叶え、夢を見れる存在になって欲しいと、、、
無関心という選択
選挙とは候補者を選ぶという選択肢のほかにもう二つ選ぶことができると思っていて、一つ目は「白紙」
「選挙に関心はあるが、この候補者の中には支持したい人がいない」という意味でとらえることが出来ると思う。多様な生き方暮らし方がある現代では当たり前だがすべての想いが重なることはなかなか難しいですよね。
もう一つが「投票しない」という選択
僕はこの選択が一番気になってて、これこそ様々な理由があるよなと。
人それぞれいろんな理由があるんだろうけど、「無関心」ではないよね?「無関心」って好き、嫌いより痛いと思う。もちろん投票率だけでこの数字は測れないけど、できればそうじゃないまちであって欲しいと願うんです。
”答え”より”問い”を
去年、雑誌のランキングで「暮らしやすい街 第一位の北九州市」という話をよく耳にした。確かに北九州市で暮らしてると特段困ったこともなく、不自由に思うこともなく、暮らしやすいと言われればそうかなと思う。
沢山の人がこのまちを暮らしやすい街にしてくれてるんだよね。そして、一人の力で解決できない”大きな課題”はみんなで力を合わせて解決して、暮らしやすい街をつくっていこうとしてるはずなのに見えてない。そもそも見ようとしてたかなと。
暮らしやすい街づくりを他人の手にゆだねて、ミュージカルを見るように上から見物してない?
誰かがつくってくれる物語を、誰かがやってくれてるだろうと思ってない?それって暮らしをつくる演者(市民)ではなく、お客(よそもの)になってない?
今回の市長選を見ていてこんな”問い”を自分に投げてみた。
演者が居ない街から暮らしやすい街なんて生まれるはずないからね。何もしないことって現状維持ではなく衰退、消耗なんじゃないかな。
街の未来に”答え”なんてないと思うけど”市民”であることを僕は示したい。
7割くらいの北九州市の有権者のみなさんが示せなかった理由が「暮らしやすい街、北九州市」が生んだ悪い産物じゃないことを願います。