芸術とは、能動だ。
「芸術」
改めてこの言葉に触れたとき、一体どんなイメージをするのだろう。
モネの描いた、『睡蓮』を思い浮かべたり。
ベートーヴェン作曲の、『運命』を聴いてみたり。
これまでの間、芸術家って、自分には遠い存在であると思い続けてきた。
芸術とは、なくても生きていくことは可能な、贅沢品であるのだろうと。
それはある意味で、人間の生命維持のために必須とされる、
「衣食住」とはかけ離れたものであるという解釈も可能な気がする。
しかし、かの有名な日本の芸術家、岡本太郎は、こう言った。
”芸術は生きることそのものだ”と……。
あいみょんも愛した“芸術家”
生きることと芸術の、きってもきれない関係について記された著書が、岡本太郎の『今日の芸術』(1954/光文社)。
本書は、有名なシンガーソングライター、「あいみょん」さんがバイブル本として愛読しているがゆえに、曲にまでなっている一冊だ。
平成生まれの若者にとって、あいみょんがきっかけで、岡本太郎について興味を持ったひともいるのではないか。
芸術≒自ら仮説をたてること
あいみょんの曲「今日の芸術」の歌詞には、こんな一節がある。
私がはじめてこのフレーズを聴いた時、とても簡潔に岡本太郎の世界観を要約しているなと感じた。その意味について、改めて紹介していく。
先にも述べたが、岡本太郎の『今日の芸術』では、第1章から、“芸術とは生きることそのもの” だと述べている。
この一文だけ読んでも、よくわからないだろう。
私自身も、芸術は受け身として楽しむ贅沢品だと思っていたから、
何がなんだか意味がわからなかった。
従来の私にとって、芸術のイメージとは、美術館で絵画を観ることや、コンサート会場で音楽を聴くこと。
私が何か手を動かすわけでもなく、脳を動かすわけでもなく、受動的に入ってくる娯楽。つまり、なくても生きていけるもの。
しかし、文章を読み進めていくと、岡本太郎はこうつづける。
つまり岡本太郎は、芸術とは自ら進んで、手を動かして、脳を動かす行為すべてのことを指し示しているのだ。
目の前の事象を、ただ受けとるのではなく、
目の前のことに対してどれだけ問いを持てるのか。
そしてどれだけ自分なりの答えを出せるのか。
それは、あいみょんの言っている、
”見たもの全てに頷いて見たもの全てを批判せよ”という歌詞が物語っているようにも感じる。
他のものに左右されない自分の意思こそが、芸術であるのだと。
実際に、本書で岡本太郎は日本でずっと美徳とされてきた、富士山の絵について批判をしている。そこには、文化的には価値のある、富士山の美しさを受動的に受けているのではなく、自発的に、物事を見ようとする姿勢がうかがえる。
さまざまな視点から、芸術を解く
ただ、自ら問いを立て、自分の言葉で語る岡本太郎氏の書いた本書。
当然文章の内容も、情報量は莫大だ。
そんな濃い内容がつまっている一方で、ずっと読んでても、次のページをめくりたくなってしまう。それは、短文で、さまざまな視点から芸術について書かれているからだろう。
日本のこと、東洋のこと、ピカソのこと。
読み続けていても似たようなエピソードはなく、どんどんいろんな視点に触れることができる。
芸術とは、能動。
この本を読んだあと、ものの見方がより深くなりそうだ。
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