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手間を愛する、私のお気に入り時間。

これまでの自分を思い返す。
コーヒーを淹れることに夢中になった。
キャンプにのめりこんだ時期もあった。

そんなわたしは今、フィルムカメラに熱をあげている。

時間を介して写真を撮る。

カメラと言っても、写真を残すことのみが目的であるならば、
デジタルカメラでも、スマートフォンでも成し遂げられる。
便利なことに、それらは一度に何枚、何十枚もの写真を撮ることさえ可能だ。

一方でどうだろう。
フィルムカメラは、現像するまで写真の確認ができない。
真っ黒な写真が現像されることもしばしば。

それでもフィルムカメラに魅了された理由。
それは「過程」を楽しめることに、ときめきを感じるから。

まず店頭に向かい、お気に入りのフィルムを選ぶところからはじまる。
そして、ゆっくりフィルムを巻く瞬間。現像までの、ドキドキ感。

フィルムカメラは、シャッターを切る瞬間に限らず、
長い時間を介して「写真を撮る」という行為そのものを楽しむことができる。
それはある意味、効率重視になった高度成長期以降、
「手間」と避けられてきた行為なのかもしれない。

手間をかける時間がすきだ。

思えばこれまで熱中してきた、コーヒーやキャンプについても、
「手間」を楽しむことが、共通項として挙げられるように感じる。

ガスコンロがある時代、料理を完成させること自体が目的ならば、キャンプで料理をしなくても良い。
でも、薪を割って、風の通り道を考えて、そこから薪を組み、火を起こして。キャンプの位置づけって、まさにその過程自体を楽しむことなのではないだろうか。

私は手間をかけて、ゆっくりと時間を味わうことに、魅力を感じるのだと思う。

急ぐだけが、正解じゃない。

近頃アナログレコードとか、手動のコーヒーミルとか、ていねいな暮らしに魅了されているひとが多いと聞く。

もしかすると、それだけ社会は何かのゴールを目掛けて、
急いで正解を出そうとする傾向にあるのかもしれない。
そして、そのような社会に属しているからこそ、
ひとは余白を、手間を楽しむ時間を求めているのではないか。

急ぐだけが、正解じゃない。
ゆっくりじっくり過程を味わう。
物理的な、心理的な余白が、私にも人々にも必要なのかもしれない。

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