ちょっとした選択で、少しずつ人生が変わっていくっていうのは、「あの日リヴリーをインストールしなければ、私は今このバスに乗っていなかった」みたいなことなんだろう。Mrs. GREEN APPLEonHarmonyとてもよかった。有難うKアリーナ。有難う関東。また会いに来ます。
「お前の物差しでおれを測るな」って凄く良い言葉だなあと思う。元々はチンピラ同士の喧嘩なんかで使われるような煽り文句だとは思うのだけど。それでも狭い視野でガタガタ他人事を断罪する人々を見ていると、チンピラも良い事言うよなとしみじみ沁みる。人にはそれぞれちょうどいい長さがあるんでね。
「自分では気付かなかったことや、自分以外の視点を見つけて、共通するものの解像度をあげるために議論するんじゃないのか?」 「お前は自分の気に入らないものを叩き潰すことを議論と呼んでいるのか?」 「人の話を聴く気がないなら議論する資格がないんじゃないか?」 「そもそも個人的なことを言うなら、そんなやつとは会話すらしたくないよ。どっかいけよ。」 全部今朝夢の中で私が言っていた言葉だ。 昨日のはこうだ。 「もう自分じゃどうしようもないことを自分だけでどうにかさせようとするのやめ
肝に銘じておきたいのだけれど、文明に罪は無いのだ。誰かが求めて、積み上げてきたものがただそこにあるだけなのだ。善も悪もない。悪いとすれば文明の使い方であろう。ただそれが害を成している場面があるのもまた事実だ。 上手いこと生き物がやれたなら、と思っている。
自ら自分の人生を悲劇にする人とはあまり関わりたくないな。多分自分もそういうケがあると自覚した上で、そっちにはいくまいと自覚した上で、そっちに足を引っ張られたくないてな感じなんだろう、感覚としては。イヤ何、今日思うところが2,3場面あっただけさ。私は私で幸せでした。みんな有難う。
子どもたちが受け入れていることや彼らの当たり前は、そのまま20年後の社会になる。…やっぱり今からでもプログラミングを勉強するべきかしら。
倫理や良心を捻じ曲げるための理屈は、強引な切り口かつ強気で出来ているから、恐らく自然な論理よりもずっと苛烈で、その割に手抜かりも多いんだ。だから信じ込んでしまうと大変な目に遭うんだろう。怖いことだね。自分の論理を作る練習をしておくといいのかもしれないな。
結婚してからずっと、ニンゲンに拾われて温かい家に招き入れられ、優しくシャワーされ、飼い犬としての首輪をつけてもらったような、保護された野犬のような安心感がずっとある。失くすのが怖いくらいとてもありがたい首輪だと思う。大事にしたい。
これはもしかしたら自分の置かれる環境が、今までよりずっと保護的で温かいものになったから言えることなのかもしれないけれど、人間はもっとヒトに戻ったほうがいいんじゃないかと思う。 この世界のはじまりは、(と言ってしまうと仰々しいが、とにかく)「造り出された星の環境や、そこで発生した生命」にこそあって、人間社会とはそれの一部を円滑に保護し、動かしていくためのシステムでしかない。つまり社会のために人があるのでなく、人のために社会があるので、 「金銭のために個人の尊厳や健康が犠牲にな
熱く篭った体温をどこにも逃がせずに 蒸し器の中に居るような夜は 熱帯魚になってやり過ごそう 息苦しいほど高い湿度と温度を自分の味方にする魔法 目を閉じて暗闇に手と脚を放り出す もうそこにあるのは自在に空を泳ぎ回る鰭 エアコンをフィルターに見立て 扇風機で水流を作る ベッドの底床に寝そべり 時折気まぐれにふわり翻る 私は熱帯魚 あったかいくらいが気持ち良い ゆらゆら ふわふわ あらあなた そんなにふわついて 熱中症かと思った そんな想像で夏が乗り切れるなら救急車要らねんだ
SNSでの袋叩きというか、炎上すると不特定多数から一斉に誹謗中傷されるアレ、インターネットによる社会の急速な進化についていけなくなった事による現代病だと思っていたのだけど、人間の本能なのかもしれない。群れの中に変なやつがいる!となったら反射的に追い出そうとするの、中々原始的よね。
「時代のスピードがヒトの生きるスピードを超えた、これからは水槽の中の殖え過ぎた貝のように弱者はより一層淘汰され、社会は規格化していく」とはっきり感じた瞬間があって、それ以来まっすぐ生真面目に生きるのがどうでもよくなった。思えばそこから何に対しても頑張れなくなった気がする。
とある自死した人が遺した「生きることも死ぬことも自分で選んだなら間違いじゃない」って言葉がずっと引っかかっている。自分で選ぶ死が間違いじゃなくなった世界は、他人から望まれる死も肯定されて、今よりずっと増えると思うんだよな。自分の命なら自分で捨てて良いってのは、危うい事な気がする。
自分で自分を幸せにするのって難しい。特にこの情報化社会じゃ一層難しい。物で溢れているから一見簡単に見えるけれど、物で溢れているからこそ自分にとって大事なものが埋もれてずっと見つからなかったり、大衆的な喜びに流されてしまったり、他人と比べて、上限の無い唯物的な幸福に途方に暮れてしまったりするだろう。「自分の幸せはこういうものだ」と納得できていたつもりでも、自分では想像できないようなケタ違いの幸福を抱えている人間を見て、腰を抜かすこともある。それも情報化社会の一面だ。 そして幼