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心の貧しい者、悲しむ者


フリーランスの塾講師として働いているが、数年前につくったホームページに記載した「大切にすること」を見直しながら、なんだか自分自身で大きな違和感と嫌悪感を抱いた。そこに私はこう書いていた。

「健全な自尊心:ぼく、わたしには素晴らしい力がある!ということを積極的に受け止め、簡単に自分の限界を決めずにない力を育みます。」

当時としてはもちろんよく考えて書いたつもりではあったものの、改めて読み返すと、ディズニー映画などでお決まりの口滑らかなメッセージとまるで同じではないか。ひどく恥ずかしくなった。
健全な自尊心とはなんだろうか?果たして聖書はそんなことを語っているだろうか?
今回はとくにイエス様の山上の説教から学び、世が語ることではなく聖書にある真理への理解を深めていきたい。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

マタイによる福音書5章3-4節

神へのいけにえは、砕かれたたましい砕かれた、悔いた心。あなたは、それを蔑まれません。

詩篇51篇17節

「あなたは素晴らしい」という嘘


19世紀、アメリカ哲学に多大な影響を与えたエマーソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-1882)は、ボストンのユニタリアン教会の牧師であったが、人間の内部には至高の神が内在しており、そこに認められる神こそ礼拝すべきもの、ここにこそ人間の崇高ないのちがあると考え、とうとう牧師の職を辞してしまう。人間礼賛を思考の基軸にすえた彼の言明は、今でも「名言」などとして語り継がれている。

汝自身を信ぜよ。あらゆる心はこの鉄の線に合して響く。

透谷とエスマンの比較研究序説

彼によれば、弱さは自尊心の欠如にあり、それがあらゆる悪の根だという。そんな彼にとって、弱さを指摘し、その弱さを強く自覚することこそが天国への入り口であるとするキリストはつまずきであり侮辱的な存在だったに違いない。

聖書にある真理

人が罪悪感や無力感で身動きが取れなくなった時、その解決は自尊心を育てることなどではない。

恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

イザヤ書41章14節

自分自身を虫けらと思い打ちひしがれている人々を解放し力づける神様の方法は、「あなたは素晴らしい羽が生えた美しい蝶ですよ」と歯の浮くような方便を垂れるなどということではない。むしろ、「確かにあなたは弱いが、わたしは弱いあなたこそ助ける。わたしは堕落したあなたたを救う。わたしにより頼みなさい」と真実な愛をもって引き寄せてくださる。

ウィリアム・ケアリー

1812年の火災で想像を絶する苦悩と犠牲の上にやっと完成した数十冊の貴重な原稿を失ったとき、彼は悪魔を恨むでも神を責めるのでもなく、ただ神を崇めてこう言ったという。
「主は、私たちを打ちのめしてくださいました。主にはその権威があり、私たちはその矯正を受けるに値するものです」

彼の墓石には彼のこんなことばが刻まれている。
ウィリアム·ケアリー
1761年8月17日-1834年6月9日
惨めで、貧しく、無力な虫けら。
あなたの優しい御腕の上に、私は倒れます。

https://www.wmcarey.edu/carey/obits/epitaph.htm

まとめ

・心が貧しいとは:神の前で、自分がいかに汚らわしく無価値な存在であるかを深く認識している状態。
・誰もが神の前では堕落したもの、無力で汚れていて価値のないもの。でも、誰もが神様の祝福を受けるわけではない。イエス様が心の貧しい人たちは幸いであると言われた時、それはすべての人を指しているわけではなかった。祝福は、本当にその醜さに直面して嘆いている人に限定される。
・悲しみに暮れる、心の貧しい人は幸いである。自分の不十分さ、罪悪感、失敗、無力感、無価値観、虚しさを痛感し、それらを仮面の下に隠そうとせず正直に向き合い、それを悲しむ人たちは幸いである。罪深く、無力で卑劣な自分を、憐れみ深く強い神の優しい御腕に託す。自分には何もないことを認め、両掌を空にして初めて十字架にしがみつくことができる。そしてそれこそが、天国へ続く救いの道を歩むスタートラインである。


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