16世紀初頭にドイツから始まった宗教改革は、腐敗したローマ=カトリック教会が絶対的な支配力を持っていたヨーロッパのキリスト教信仰を一変させ、聖書の教えに立ちもどろうとする運動が広がった。
1553年イングランド女王として即位したメアリ1世は、スペイン王室と結んでカトリック信仰を復活しようと企てる。1555年1月、異端取締法を復活させた彼女はプロテスタント信仰を捨てない者を次々に処刑する弾圧政策をとり、その残酷さはこのように記述されている。
ジョン・フーパーは、その熱心なプロテスタント信仰を決して取り下げようとしなかったために、彼女の治世下で最初に焚殺された殉教者だ。2月9日、スミスフィールドの処刑場に向かいながら、フーパーは集まった多くの傍観者に、ともに主の祈りを唱えるよう求め、人々は涙を流しながら祈りを捧げたという。そして、これからまさに自分を焼き尽くそうとする藁の二束を自らの手で受け取り、抱きしめ、口づけしたのち足元におき、やがて火が彼のからだを覆い焼き尽くすまで、堂々たる態度を貫いた。
今回は、処刑される3週間前に彼が友人に宛てたという手紙から、真の信仰者の姿を学びたい。(添付資料p18)
イエス・キリストを忠実に信じる者は迫害を免れない。なぜなら、聖なる神の御言葉を真剣に聞き義の道にふさわしく歩むとき、罪に満ちた世とは切り離された神の性質が成長するから。それはすべての信仰者が投獄されたり火あぶりにされたりするという意味ではなく、今まさに生きている世と対極に立ち、その潮流に抗って歩むことを経験するということである。
ならば教会は、そうした世から憎まれる者たちの集まりであることを覚悟しなければならないし、そうあるべきである。世の流行、価値観に合わせて神の基準を曲げるようなことがあってはならない。
あまりにも聖書の基準からズレた価値観が当たり前のように擁護され、その勢いがますます加速する時代にあって、人ではなく神を畏れ、この世ときっぱり決別して生きる覚悟はあるか。世と対峙することで直面する「迫害」を特権として抱きしめる心があるか。ますます声を大にして、救い主イエス・キリストを宣べ伝える情熱が溢れているか・・・。
主の前に自信をもって「はい」と答えられない自分の弱さ、醜さが見え隠れする。
主よ、私は本当に、なんと愚かな人間なのでしょう。大いなるあなたの救いのみわざを知っているはずなのに。