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佐目02-歴史探索 縄文・弥生・古墳

00-参考資料

以下の資料を参考に、佐目の年表に犬上氏等の歴史を入れた4世紀までのメモを作った。○○天皇(※○○年)の西暦は、前回の最後に表を掲載した「炉辺談話より引用」しているので公式な年代ではないが、参考にした。

1.『古代の芹川、犬上川扇状地開発と多賀信仰』 小菅 一彦 著
本当は歴史家になりたかったという彦根市立病院の院長もされた小菅先生に頂いた多賀の古代を知る貴重な自費出版の本。以下(小菅)

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2.『小野妹子・犬上御田鍬とそのふるさと』
安土城考古博物館にお勤めだった大橋信弥氏が専修大学東アジア世界史研究センター年報 第4号 2010年3月に掲載されている。ぜひ、リンク先本文でご覧頂きたい。(大橋)
https://core.ac.uk/download/pdf/71785555.pdf

年表佐目01

※年代は、前回01-08に掲載のロータリー田中氏「炉辺談話より引用」した。

01-縄文 カモシカを食べていた佐目洞窟人

縄文前半は、温暖化により西日本は亜熱帯気候に近く、人が住めたものではなく、縄文中期をすぎ気温が低くなって、多賀の楢崎、甲良の北落で瀬戸内海、近畿、東海地方の土器石器、中期末には敏満寺で東日本、甲良小川原では北関東、北陸のハート型土偶も出ており、佐目のこうもり穴でもこの頃の縄文土器が出ている。縄文末期には九州からの土器も見え、東西文化の接点だった。(小菅)

ところが、平成21年、永源寺の相谷から、縄文時代草創期(約 13,000 年前、紀元前 11,000 年頃)の竪穴建物跡を計 5 棟検出。土中から国内最古級の土偶が完全な形で出土。定説が覆る発見なのだそう。詳しくは、こちら

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この土偶は放射性炭素年代測定法(AMS法)で測定されているので、確かかなと。佐目の縄文式土器は、昭和4年に発見され、今はどこにあるかわからないので、調べ直す事は出来ないが、さほど離れていない永源寺で見つかったという事は、やはり石器時代から鈴鹿の山には人がいたという事なんだろう。平地で稲作が始まるまでは、山地の方が住みやすかったのだ。相谷といい、多賀の山を調べれば、まだ きっと何か出てくる気はする。

佐目の場合、洞窟で縄文土器が見つかり、そこに生活していたというのが、石器時代洞窟の発見が少ない日本で意義のある事らしい。

こうもり穴

この発見は、
「小牧實繁・直良信夫・藤岡謙二郎,1941.近江佐目の洞窟遺跡.古代文化,12(8):385‐393.」に掲載されている。が、多賀町史上巻P146-156に読みやすく解説して頂いている。

つい、はじめ人間ギャートルズを想像しながら読んでしまったが、高山獣であるはずのカモシカの骨が他に比べ多く出てきたとあり、その当時は、標高の低い山間部まで分布していたとある。

カモシカは、鹿ではなく牛科で美味しいらしい。佐目洞窟人はグルメだったのだ。現在は、天然記念物になっていて食する事は出来ないが、実は山里にも降りてくる位、今は数が増えていて被害も出ている。と、横道にそれたが先に進もう。

後に掲載するが、多賀の木曽遺跡では縄文時代中期前半(3000.C.B)の土器片が見つかっている。歴史は、新しい方が古いのだ。

02-弥生時代、稲作不適合地だった多賀

弥生時代は、水稲農耕のはじまりが定義らしいが、放射性炭素年代測定により縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われいたとわかり、昔は弥生時代は紀元前5世紀からだったが、最近は紀元前10世紀~紀元後3世紀中頃までを言うらしい。

現在のような水の中で稲を育ている方法は、朝鮮半島から伝わったと学生の頃に教わった記憶があるが、最近は、中国から直接、対馬海流にのり九州に上陸したとも言われている。九州から朝鮮半島は行きやすいが、その逆は対馬海流に逆らう事になり、かなり困難らしく、稲作の伝来は日韓同時という説もある。

渡来人=朝鮮半島の人 と思っていたが、違うようだ。どうも私が歴史を習った頃は、何でも朝鮮半島由来と導く教育がされていたらしい。確かに(笑)
どっちにしろ、今の日本人の血の7~8割は縄文人以外らしい。漢人も朝鮮半島の血も相当数、混じっている事になる。

それはさておき、現在は穀倉地帯と言われている湖東地域も、当時、芹川・犬上川・宇曽川の湖東平野は、扇状地で稲作に必要な水を得にくい地域だったそうで、今の所 弥生時代の稲作跡は見つかっておらず、遅れていたらしい。土のやわらかい湿地帯で木製の鍬などを使ったささやかな稲作だけだったそうだ。(小菅) 

神功皇后元年( ※350年位)に 犬上氏の祖先 倉見別がヤマト王権周辺にて活躍している。日本書紀の話だけど、この神功皇后は第14代天皇・仲哀天皇の皇后で、犬上郡の隣、米原にゆかりの息長氏の娘であり、仲哀天皇はヤマトタケルの子供で、つまりは、犬上氏の祖 稲依別王と異母兄弟になり、倉見別はその子孫という事になる。

弥生末期の近江湖東地域には、ヤマト王権の関係者が多いようだ。
(と同時に、古事記、日本書紀の作成時に口を出せる人物の存在も指摘されている。これは、いずれ)

そして後に、稲作不適合地を穀倉地帯と言われるまでに改善する足掛かりを作ったのが「犬上氏」と「渡来人」という事になる。

扇状地

03-古墳時代

一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指す考古学的な時代区分なのだそうだ。このくくりも、新しい古墳が発見されると変わるらしく、前期、中期、後期とかザックリしすぎてよくわからないが、先にすすめる。

3世紀中頃にヤマト王権(大和朝廷)ができ、4世紀末 滋賀県第二位の大きさの荒神山古墳(上図)が発見されている。前方後円墳である事から、ヤマト王権に近い首長級のものと発表されており、大橋氏は「犬上君」のものではないかと推測されている。(個人的には、少しひっかかるが) 上記、年表 350年頃(正しいかはわからないが、便宜的に西暦にしている) 、犬上氏の祖先 倉見別は武闘派として、神功皇后と戦ったと『日本書紀』にある。反体制派だった。「犬上」と まだ名乗っていない。

荒神山は彦根市にあるが、彦根になったのは昭和12年からで100年もたっておらず、ずっと「犬上郡」だったのだ。荒神山は、琵琶湖沿いの小高い山で、琵琶湖の湖上交通も湖東平野も見渡せる絶好なシンボル的な場所だ。

上図の黄色の部分が、水田がつくりにくい扇状地。農地より水面が低いので、川をせき止め水面を上げて、そこから水を引くという大掛かりな工事が必要になる。この黄色のあたり、甲良・多賀で見つかっている古墳は、520年~640年頃の築造で、隣の依知秦氏ゆかりの愛荘町も同様に、渡来系の古墳が見つかっている事から、京都太秦で大掛かりな灌漑土木工事を成功させた秦氏集団が、6世紀前期頃にやってきたようだと言われている。

少し、といっても8世紀になるが、隣の愛知郡(愛荘町)と比べ、犬上郡では倭漢人の方が多い。(『小野妹子・犬上御田鍬とそのふるさと』より抽出)

古代氏族分布犬上

愛知郡と犬上郡では、治めている人が違うので、渡来系といっても違うのだ。

彦根市の荒神山遺跡の報告書によると、荒神山の南 芝原遺跡では4世紀後半のフイゴ跡などがある「鍛冶工房」が見つかっている。

出てきた! 「鉄」。忘れそうになるが(笑) 私の目的は「佐目氏」がどんな氏族だったのかを調べる事にある。佐目の伝承や地名から、鉄との関係がプンプン匂う。曲りなりにも、大和政権(ヤマト王権)と関係がある「和気」の佐目殿と言われていた事は間違いないようだし。そして、奈良時代(710-794)以前に多賀の佐目から永源寺の佐目に本拠を移している。

鉄がないと大規模な灌漑土木工事は出来ないし、広範囲の水田も作れない。セットなのだ。木製の道具も作れないし、もちろん、木地師の轆轤もつくれない。

04-犬上の製鉄

荒神山古墳の報告書によると、一般的に
弥生時代中期に始まった鉄器化は、恒常化する戦の為の鏃(やじり)からで、弥生時代後期以降に工具が用いられていたが、それらの鉄素材は輸入に頼っていた。
・荒神山古墳近くの芝原遺跡「鍛冶工房」4世紀後半、古墳時代前期である。
・古墳時代中期にやっと農具が鉄器化されている。奈良盆地では、3世紀後半(古墳時代前期)に鉄製農耕具がみつかっている。
芝原遺跡は5世紀代の遺構は確認できないが、6世紀前半を中心に11世紀まで遺構が確認できている。

日本で唯一のたたらの総合博物館「和鋼博物館」のサイトには、以下のようにある。

・縄文時代末には鉄器が日本列島にもたらされ、
・弥生時代のはじめには、鉄素材を輸入に頼りながらも国内で鉄器の加工生産が開始され
・弥生時代後期になると、小規模ながら製鉄が開始され大陸からの鉄素材に、列島内産の鉄も加えて鉄器の生産が行われるようになり、
・古墳時代後期(6世紀)には列島内の鉄生産が本格的になった。  

若干、年代にずれがある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』たたら製鉄
 を読んでみると、あれれ、やっぱり芝原遺跡は結構早い時期。

・古墳が出来たのと同時期の4世紀末に「鍛冶工房」がつくられている。
・犬上氏は、ヤマト王権を軍事的に支えていた?
・犬上氏は鉄の輸入に関わっていたとどこかで読んだ事がある(笑)
・「鍛冶工房」は、元は輸入した鉄の加工をしており、輸入が途絶え、国内の鉄が手に入る事により復活したのかも。
・古代からたたら製鉄で有名な出雲地域も、はじまりは近江とあまり変わらない。
・古くは水運にたけた漢人の安曇族、鉄に関りのある息長氏、継体天皇の誕生と犬上氏の関係が気になる。息長氏ゆかりかと思われる古墳は、5世紀末から6世紀後半に作られており、湖畔の朝妻から下丹生あたりに及んでいる。実は、醒井(さめがい)→ 多賀の佐目(さめ) → 永源寺の佐目(さめ)の鈴鹿山脈の山の鉄のつながりも 疑っているのである。

犬上氏が鉄を加工しはじめ、製鉄の方法を学び、近くの山で製鉄に必要な木炭の材料と鉄を含む土地を探しはじめた時期が、佐目氏がわが村にやってきた時期なのだろうか。鉄の材料が佐目近辺で無くなり、永源寺に移動したのだろうか。

05-『古代の鉄と神々』真弓 常忠(著)


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真弓 常忠氏は、神職であり皇學館大学教授の後、八坂神社宮司、住吉大社名誉宮司でもあった方である。目から鱗、腑に落ちる解説だった。昭和60年初版、7刷も重版されているという。2021年1月にkindle版が出された。(画像よりリンク)

考古学的には、遺跡で何かが見つかったり、文献に書いてないと事実と認めらない。鉄に関していうと、みつからないから輸入したのだろうという事になるが(荒神山古墳報告書)、より新しい情報の「和鋼博物館」のサイトの弥生時代より国産の鉄を作っていたとあり、どうやって?という点がこの本を拝読して合点がいった。当時の鉄は、消えてしまい残らないのだ。神社の歴史、祭祀研究のプロだからこそ、副産物的に「神と鉄」の関係が見えてきたという事らしい。

この本には、多賀大社、犬上、兵主神社、日野、穴太など近江に関わる地名が出てくる。というより、多賀大社の近くに「鉄」がないのはおかしいと言わんばかりである。残念ながら、2019年に96才で亡くなっておられるが「あるかも」と、伝えてあげたい。
ついでだが、神職をしている親戚は、この真弓氏に習ったという。実直なお人柄だったが、とても面白い授業だったそうだ。

詳しくは、著書を読んでもらいたいが、多賀大社のご祭神 イザナギ・イザナミは、日本の神々を御生みになられた二柱だが、水稲だけでなく、鉄を表す神だというのだ。確かに、稲だけで日本を統治する力は持てない。稲と鉄はセットなのだ。

最初に紹介した 2.『小野妹子・犬上御田鍬とそのふるさと』(大橋信弥氏)
と合わせて読むと、とても面白い。たまたま、彦根図書館で借りた『古代豪族と渡来人』、『米原町史』の知りたい箇所を読んでデジャブ?と思ったら、どれも大橋信弥氏が書いておられたが、湖東地域、特に犬上郡の製鉄遺構については、執筆当時は調べられてないとわかった。「ない」のではなく「調べられていない」のだ。

『古代の鉄と神々』には、元々日本で製鉄にかかわっていた人々と、渡来人によりもたらされた新しい製鉄技術を持つ人々との新旧の確執や移行が、祭祀学の立場から推測されている。プロ中のプロである。

オオナムチの神は、いくつも名前があり、大国主命、『 古事記』 では「 大牟遅神」、『 出雲国風土記』 では「 大持命」 と書き、日本で最古の神社(3世紀)と言われる大神神社(三輪山)、5世紀の出雲の祭神で、どちらも鉄生産に関りがあるそうだ。お酒だけではなかったのね。又「=鉄」なのだそうだ。

大国主=大物主と言われているが、真弓先生によると、
大国主の 別名 大牟遅(オオナムチ)のは、「鉄穴」がルーツで、産鉄を行い農耕の推進をはかった「倭鍛冶」らの土着の民が奉じた神で、製鉄氏族と農耕民共通の普遍的な神となったが、韓鍛冶の出現により、存在が忘れられた。
大物主は物部氏の「物」で、農耕だけでなく剣などの武器の鉄や祭祀(モノノケのモノも同じ)の鉄を管理し、全国の製鉄の部民を支配していた氏族の事なのだそうだ。

三輪山の大神神社の由緒に

『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。

真弓先生の本には

三輪山 西南麓 には金屋遺跡があり、 弥生時代の遺物とともに、鉄滓(てっさい=スラッグ) や 吹子の火口、 焼土が出土している。・・・
・・・ 原初的な宗教信仰では、もっと直接に事象 そのもの を そのまま 神聖視した。 大和の民が三輪山を神聖視したのは、その 秀麗な山容もさることながら、その山麓に営む水稲耕作に不可欠な鉄製品の原料たる砂鉄を産する 山であったからで ある。・・・

とある。なるほど。

『 丹後国風土記』には、 「火明命が高志( 越)国 を領したのは、 オオナムチの神の詔りによる もの で、とくに オオナムチ・スクナヒコナ の 二神 が「 白黒 の 鉄砂」 を得たので…」と、大国主命少彦名命と鉄砂=砂鉄との関係が出てくる。

少彦名命は、大国主命に協力して国造りをしたという佐目の十二相神社の御祭神である。つながった。鉄と関係するのだ。
しかも、製鉄に必要な木炭の原料の木の『榾神様』も十二相神社の御祭伸。パーフェクトなセットではないか!!!  神仏習合の神社だったので、神様としては「榾神様」を大切にしてきたきらいはあるが・・・。

しかも、佐目という村の名は「左目一つの童子」からきている。
製鉄・鍛冶の神の天目 一箇 神(あめのまひとつのかみ)と、ほぼ一緒。
(これも、又 いづれ)

驚いたのが、原始的な鉄はバクテリアにより葦などの草の根に鉄の塊(褐鉄鉱・スズ鉄)が出来たものから作っていたそうだ。天に対して、地上、つまり日本を表す「原中国(あしはらのなかつくに)」の葦原は、鉄を表すのだという。確かに、ではなくだ。
滋賀県の日野町の別所高師小僧(べっしょたかしこぞう)が、天然記念物になっている。葦などにつくので湖沼鉄とも言われている。

パイプ状のベンガラといった所か。この褐鉄鉱だと、800度以下、露天たたらで製造でき、須恵器をつくる技術があれば出来るらしい。なので、炉の跡が見つからない。

その形状を表したのが、諏訪神社にある神宝「さなぎの鈴」と呼ばれている 鉄鐸。銅鐸は、この代替えではないかとの事。写真は、八ヶ岳原人さんのサイトからお借りした。

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さなぎは、佐 那 伎 と書く。 → イザナギ ・ イザナミ との事。
普通なら、こじ付けちゃうの?と思う所だが、祭祀研究のプロである。気になる方は、ぜひ本を読んでほしい。

スズ鉄(褐鉄鉱) のスズは「鈴」ではないが、もしかしたら「鈴」の原型はこれかもしれない。祈祷の時に使われる「神楽鈴」も「鈴生り」も「虫のサナギ」もルーツはこれなのだろう。

いや、「草薙剣」(クサナギのツルギ)こそ、その事を表しているのではないだろうか。

いやいや、鈴鹿山脈の「鈴」こそ、まさにそれを表しているのだろう。ヤマトから近い場所で「鈴」を探し回ったに違いない。(妄想です)

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1.最初に、褐鉄鉱 により、鉄が原始的な方法でつくられていた。
それが、諏訪神社の祭祀や祭神から読み取れる。伊邪那岐(イザナギ)大神の時代である。紀元前だと思われる。

2.そして、大国主命・少彦名命により、土着の民産鉄を行い農耕の推進をはかる「倭鍛冶」が生まれ全国に広まった。

3.更に「韓鍛冶」など渡来人による技術が4世紀半から5世紀に入ってきて、古墳時代を迎え、「倭鍛冶」がすたれる事になる。

そこには、単純に製鉄技術だけでなく、権力の勝ち負けも存在する。

鉄の原料と技術を持つ事が、力を持つ事、稲作や生活道具をつくり豊かになる事につながり、ヤマト王権において「犬上君」「佐目氏」がどういうポジションにいたかを解明する必要がある。かな。

06-ヤマト王権誕生以前の多賀の製鉄?

製鉄に関わる地名があると多賀町史に書いてあった。
例えば、鋳物師(いもじ)というダイレクトな地名だけでなく、芋地(いもじ)もなのだそううだ。わが家の山林に、まさに「芋地谷」がある。最近、多賀町佐目で有名になっている「ミツマタ群生地」のあたりである。(この場所は、当家の所有地ではない。あしからず。) 

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イモン谷

芋地谷だけでなく、小芋地谷、山向こうの南後谷にも「イモジ谷」とある。地元では「イモン谷」とも言われている。

今後の課題だが、製鉄の関係しそうな所に「キ〇〇」という日本語からは想像つかない小字名をよく目にする。ここの「キリク」、次に出てくる「キヤルマタ」鳥居本の「キドラ古墳」、おー「キトラ古墳」も。ちょっとメモ。

今は、鉄とは全く結びつかない風景だが、05-『古代の鉄と神々』に多賀大社と伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と鉄の関係が書いてあったので、ついでに見てみると、あるではないか!!!!! 

ご神木

多賀神木 のすぐ下に「大芋地」「小芋地」
この地は、伊弉諾大神(イザナギのオオカミ)が、伊勢から山越えで来られて、杉坂で地元民から「の飯」を供し、食後に杉箸を投げ捨てられたところ、大きな杉になったという伝承がある。

実際、その地に立つと、湖東平野だけでなく、びわ湖の対岸まで見え、地勢的に畿内から東に攻めていく為の軍事基地として、ポイントになるなと思える場所である。と、ずっと秘かに思っていたが、更に「製鉄」で補強された。

『古事記』には、淡海(近江)の多賀とあり、『日本書紀』には淡路とある。
どちらかではなく、どちらにもおられたと考える方がリアルである。この記事の最後08に補足したので参考に。

「粟(あわ)の飯」もリアルだ。先に書いたように、弥生時代、多賀は「稲作不適合地」だったのだ。小菅先生に感謝! 

更に、昔の山裾の里からご神木に向かう、伊勢・美濃に至る古道の始まりの「八重練」という村を見てみると、ここにもあるある。

八重練

他にも、製鉄に関係する地名は色々あるよう。まんまの「金堀場」、たぶん砂溜、赤子谷、松掛も 製鉄に関係するのではないだろうか。
以下のサイトも参考に。今回は、ごく一部。
「地名と人々の営み」

その他、多賀で探してみると、河内、一ノ瀬、猿木、もちろん、金屋(甲良)は、バリバリの名前だし、金属を探すのに役行者・修験者も関係するらしい。思いつく場所もある。

地質と「地名」を重ねると、05-『古代の鉄と神々』とリンクしそうな事が見えてきた。いや、以前は、こんな話をする人の事は、チョット怪しい(いかれてる)と思っていたのだけど(笑) 専門家が研究して頂くきっかけになれば、うれしい。

検索しても 1996年 滋賀県文化財保護協会発行の紀要 9号に「なお、滋賀県東部地域については、製鉄遺蹟分布状況を目的とする分布調査が十分になされていない為」と検証されておらず、それ以降の資料が見つけられない。

たたら等の資料を見ると、花崗岩と石灰等他の石が接触する所に金属が出来るとあり、石の事は全くわからないが、『せめぎあう岩と水 湖東流紋岩』(鈴鹿山麓混成博物館 発行)に多賀の地質が載っていたので、参考にして図の赤丸の製鉄に関係すると思われる地名と重ねてみた。地質については、違う言語を読んでいるようで花崗岩と花崗斑岩の違いもわからないので、あまり信用しないで欲しい。表は他の地質も省略しているし、図もざっくり(笑)

佐目と製鉄

佐目や一ノ瀬は、オレンジ色の花崗班岩の近所に、製鉄にかかわる地名がある。例えば、一ノ瀬の灰床、灰窯というまさに「たたら製鉄」に出てくる名前で、その間に旗頭という地名もある。今回は、省略したが他の村にも、結構あって、大君ヶ畑の奥には「材木谷+金堀谷」がセットの場所もある。

大事なのは、ここからで、伊弉諾大神がはじめて降り立たれた多賀大社のご神木のすぐ下の「大芋地・小芋地」の場所は、標高が高く更に花崗班岩に接していない。河内にも、製鉄と関係しそうな地名があるが、花崗班岩はない。

05-『古代の鉄と神々』にあるように、葦などの草の根に鉄の塊(褐鉄鉱・スズ鉄)が出来たものから、製鉄していたとしたら、これはアリだ。

麓には、芹川の他に「田川」という鉄分が流れていたと推測できる川がある。そして、その川は、弥生末期に集落があったという「木曽遺跡」近くを流れている。「小鍛冶工房跡」も、見つかっている。

『多賀大社叢書 典籍編』明治時代のものではあるが『神祇志料十四』に、多賀大社は「多賀村赤土山の麓にあり」とある。赤坂山の事かもしれないが、鉄分がある地域なのだ。

昔、多賀は「田鹿」と書いたという。(『新抄格勅符抄』806年)
」がを表し、山が「鈴鹿」となったならば、その麓に作った神社が、田の鹿 となったのもわかる気がする。もちろん、稲作がなかった地域に「田」を作ったというマーキング的な命名だったのだ。( 妄想です)

縄文時代晩期年頃(BC1000年頃 )土田や久徳遺跡では、ある程度の集落は形成されていたようだ。

木曽には、弥生前中期の遺跡はないが、弥生末期から4世紀(古墳時代初頭)の住居跡があり、土師器・須恵器・陶器・鉄滓・フイゴの羽口など5世紀の「小鍛冶工房」が見つかったらしい。詳しくは、『土田に役所があった?』の展示資料を。画像からリンク。

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しかも、弥生末期から4世紀の住居跡は、一般的な住居と違いなどが出てきており、平安時代の『和名抄』に見えるこのあたりだと推測される神戸郷、つまり神に奉仕する集落かもしれないとの事。

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すごい。ご神木の下の「大芋地」から、つながるではないか!!!
この鏡が、ここで作られただろうという訳ではない。鏡を持つに値する人がいたという事だ。

先に「鋳物師(いものし)=芋地」と書いたが、鉄の加工にはもう一つ「鍛冶師(かじし)」がある。銅鐸、鏡は、鋳物(いもの)である。

先に書いた荒神山近くの芝原遺跡の鍛冶工房は4世紀後半。5世紀代の遺構は確認できないが、6世紀前半に再開。木曽は7世紀後半から再開されている。

残念ながら、佐目の芋地谷あたりの花崗班岩あたりは、鉄が出てきそうな場所ではないのではないかと、多賀の博物館の地質のスペシャリストから聞いた。が、南後谷のイモン谷あたりで、鉄らしき黒い塊を見た事があるとの事だった。

更に、収穫は、永源寺の佐目の佐目子谷は、かなりスペシャルに鉄が出る場所らしい。ピンポンである。佐目氏が永源寺に移った理由は、これだ!
そして、元々 違う名前だった村の名を「佐目」に変えさせているのもわかった。これは、又。大切な事だけど。

07- 多賀大社の由緒ある神主名から、考えてみる。

つまり、この地図からは、当初 伊邪那岐神に相当する人物がやってきて、原始的な製鉄をご神木のある杉坂ではじめ、河内、八重練から木曽あたりで加工し、少し稲作もはじめた。

そのお供に、久那土神(山田神社・車戸氏)がいた。杉坂からの古道、山麓にある八重練の高松神社は、スサノオの神を祀っている。ヤマト王朝(アマテラス)にとっては敵なので場所を移したという由緒を見た事があるが、兄弟喧嘩する前は、父(イザナギ)を見守りに立ち寄ったのではないか。

後に詳しく説明するが、伊邪那岐大神の孫にあたる「天津彦根神」と「活彦根神」が、祖父を見守るように荒神山と金亀山(現彦根城)に降臨されたとも考えられる。(神話の話だけど)

そして、四手川から北の芹川、南の犬上川に向かう太田川に分岐する所に、大岡古墳がある。太田川は、多賀大社の北側を流れ、南側を流れるのが車戸川であり太田川に合流する。作られた川だと思われる。この辺りで、稲作が細々と始まったのではないか。神田という小字もある。

八重練、大岡、車戸 すべて地名になっているが、明治に神仏分離が行われる前までの 由緒ある多賀の神職の家系である。多賀の初期開拓者たちではないか。

そして、しばらくして「少彦名神」に相当する人物がやってきて、佐目や一ノ瀬をはじめとして、山間部で鉄がまじっている場所を探したりしているうちに、初期ヤマト王権が固まりかけた頃「佐目和気殿」が少なくとも鈴鹿の山側を任されやってきた。後発のワケだったのかもしれない。( 01をご参考に) たぶん、秦荘の蚊野別(ワケ)殿も同様かなと。秦氏がくる前だ。

その後、6世紀前半にヤマト王朝で力をつけた武闘派の犬上氏が更に発展した技術を持つ渡来人を大量導入して、大掛かりな灌漑土木工事をやりとげ、日本を代表する外交官(遣隋使、遣唐使)まで、のぼりつめていく。

思いの他、長くなった。。。本が書けそうだ(笑) 

で、おぼろげながら、気が付いた。01-に書いた 大滝神社(犬上神社)の「犬胴松」の伝承って、元々いた製鉄の氏族を、味方なのに殺しちゃって、手に入れてしまったぜ! という、何気に「しかたなかったもん」と言いたげな物語なのかもしれない。。。と。

犬胴松DSC_1844

実は、先祖が天津彦根命だという「犬上県主(あがたぬし)」がいたのだ。
「犬上、犬養」など、犬とつく名前は、鉄と関係がある。鉄が出そうな場所を犬を使って探していたそうで、そういう人達を束ねていた氏族なのだそうだ。『古代の鉄と神々』真弓 常忠(著) 佐目和気殿よりも、犬上氏よりも、ずっと、古い氏族なのだ。これは、次回。

08-イザナギの漢字と淡海か淡路か論争

私もよく間違えるが、多賀大社では イザナギは「伊邪那岐」と書く。
『古事記』では伊邪那岐神、伊大邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。よって「淡海の多賀におわす」とある『古事記』の表記を使っている。

1.「伊邪那岐大神者,坐 淡海之多賀也」淡海か淡路か論争について

『古事記』には、「伊邪那岐大神(イザナギのオオカミ)は、淡海(近江・滋賀)の多賀におわす」とあり、『日本書紀』は「ご活躍の後、淡路島で寂かに長く隠れられた」とある。

『古事記』は国内向け、『日本書紀』は漢文で海外を意識した内容で国史である。もちろん当時の権力者にとって不利益になる事は書かれていない。
なので、陰謀論もあり『古事記』の" 淡海の多賀"は、後から付け足されたと言われたりしていた。

『日本書紀』の現代語訳を見てみると、八百万の国生みをされた後

伊奘諾尊いざなぎのみことは、神の仕事をすベて終られて、あの世に赴こうとしておられた。そこで幽宫かくれみやを淡路あわじの地に造って、静かに永く隠れられた。
また別の言い伝えでは、伊奘諾尊いざなぎのみことはお仕事を終えても、徳が大きかった。そこで天に帰られてご報告され、日の少宮(ひのわかみや)に留まりお住みになったとされる。

多賀大社は、この日の少宮という事だ。淡海か淡路かではなく、『古事記』にも『日本書紀』のどちらも書いてある。多賀と書いてないだけだったのだ。多賀の古い蔵の棟板に「日之少宮」と書いてあり、調べたら多賀大社の事だとわかって、もう一つ名があった事を知ったが、昔は普通に使われてきたのだ。

上記、現代語訳に 別の言い伝えではと「天に帰られご報告され」とあるが、というのは、架空の天国みたいなものではなく、出身地という意味らしい。伊邪那岐大神に、特定のモデルが存在したかはわからないが、弥生時代、九州から東に拠点を探しにやってきた一族の長の隠居先としては、最高だったのではないか。

京都国立博物館の「銅鐸とその時代」という記事に

弥生時代は、農耕に不可欠な土地や水資源を巡っての抗争や余剰生産物の掠奪(りゃくだつ)などが、集団間で始まる時代なのです。武器が刺さった遺体や木の楯(たて)などが遺跡から発掘されており、これらは弥生時代が一面で戦いの時代であったことを雄弁に物語っています。それまでは基本的に平等であった集団の構成員の中に、支配する者と支配される者の区別があらわれるのも、この時代からです。・・・

当時の日本人について記した中国の歴史書である『魏志(ぎし)』の倭人伝(わじんでん)には、「大人(だいじん)」が道を通る時には「下戸(げこ)」は道脇に避け、ひれ伏し両手を地面について彼らのことばを聞き返答した、とあります。また、この時代の墓やその副葬品(ふくそうひん)の構成などからも、今の市や郡ぐらいの単位であったクニが、王を頂点に、王の一族、上層民、下層民、といった階層社会を形成していたと考えられます

とある。他所では、こんな状況だったのだ。いち早く、水稲作がはじまった九州から、つまりは争いを繰り返しつつ、新しい鉄と稲作の技術を広めながら北上してこられた伊邪那岐大神は、大和から鈴鹿山脈づたいにやってきて、杉坂山からびわ湖の景色を見られたら、こりゃいいわぁとなられたのもわかる(笑)今でも、すばらしい景色である。

多賀は、その当時、まだ水稲作が行われておらず、つまり上記のような争いは少なかったのだと思う。

隠居が決まったが、やはり東国が気になる。そこで、本家に相談して、負担のない範囲で争いのない多賀に別宅を設けた。でいいのではないか。

「杉坂を下り麓に至り給ふたが、山路の疲れによって『くるし』と仰せられたので、此処に行宮を造り御足を休めしめ奉った。」と言う由来のある「くるし」から名のついた栗栖(くるす)に、調宮(ととのみや)神社がある。
そう、お年をめしておられたのだ(笑) 

そして、ご隠居らしく、地元の民に農具や祭祀に使う鉄のつくり方を教え、まだ旧式の稲作をしていたのを見て、鉄を使った道具で水路をつくり、現在の多賀大社の場所で、水稲作をはじめられ、そこに「宮」を建てた。

又、ヤマト王権が出来る過程を知れば、東国に対して「多賀」という場所や御神木がある山が、地勢的戦略にとって大切だった事もわかる。それは、戦国時代でも同じである。

そして、初期に征服した、襲われにくい淡島に戻られて、お隠れになった。で、いい気がする。

2.文献に残る ヤマト王権のお墨付き
『古事記』が完成したのは712年
昭和8年発行『多賀神社史』 にある、
P13 五 御多賀杓子の由来  を現代語訳すると

・18代反町天皇(※422年)の三年に 木莵(宿禰)が天皇の命令を受けて、伊邪那岐大神の降臨の地を調べた。
・22代清寧天皇(480年)元年に 天皇群臣と多賀大社の祭儀を話し合い決めた。
・元正天皇(715-724年) 天皇の体調がすぐれず食欲がなかったので、多賀大社にご祈願された時に神山のシデの木の杓子を添えて、強飯を奉ったら、ご病気がよくなった。

つまり『古事記』ができる前から、ヤマト王権のお墨付きがあり、まさに『古事記』が出来た時に、天皇家から祈祷を頼まれるポジションにあったという事になる。P9には

ト部兼方の『釋日本紀』、忌部正通の『神代口訣』、吉田家の『諸社根元記』、清原宣賢の『神代紀妙』 等に 日之少宮=多賀大社(神社)と踏襲して現在に至る。

とある。
『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)は、鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書。
『神代口訣』(じんだいかんくけつ / 1367年)は、『日本書紀』神代紀の注釈書。
・吉田家は、中世の神社庁のような存在。明智光秀と仲がよかった吉田兼見の父兼右 『諸社根元記』の解説はこちらのリンクのPDF。原文は、国文学研究資料館 データベース189コマ~ CC BY-SA 

吉田189

陽の少ない宮 とは 朝日が昇り、天と成り始める時をいうらしい。読み込めない・・・。
清原宣賢 吉田兼右の父。『諸社根元記』は『神代紀妙』を参考に書いたのではとの事。

あー すっきりした!  堂々と、「伊邪那岐大神は、多賀におわす」と言えるし、反町天皇(※422年)三年に、お墨付きが出ていたという事は、どの神も手を出せないし、鏡が出てきたのも納得。これは、とても重要

あまっさえ、後から書き加えたとしても、抜けていたから、書き加えたでいいのではないか。伊邪那岐大神が実在の人物でなかったとしても、多賀の民、犬上郡の民は、まさに その時代「神様が降りて来られた」と感謝し、2000年以上、祈ってきたという事は、そこには、とてつもない先人の祈りの魂が宿っている。

次 03 に続く。あーくるし。

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