1-1 ルーツを探せ !多賀坊人て甲賀の忍びなの?(1)
このマガジンは、今はなき「多賀坊人(たがぼうにん)」の一族の歴史と文化を調べた未発表の冊子を公開していきます。途中で、明智光秀多賀出身説を詳らかにするキッカケになった資料も出てきて頓挫していましたが、トータル230ページ分と蔵からの出土品をご紹介。
前回は、こちら
はじめに
上の写真の扁額(へんがく)の書と肖像画は 2016 年、多賀町文化財課の協力を得て、三木の本家 ( 三木真太郎・しげ子 ) の蔵から出できた先祖 三木淇内 ( きない ) が私たち子孫の為に書いたものです。少し、胸が熱くなりました。
蔵からは会った事のない祖父祖母や大伯父大伯母の物も多数出てきました。元気づけられたり、誇りに思ったり、励みになったりしました。そして、とても文化的な暮らしをしていた一族だったと知りました。
本家をつぐ人はもういませんが、この先 三木家からつながった子孫の為にちゃんと伝えるのが、先祖から命のバトンを受け取った私たちの世代の役目だと思い、この冊子を作ることになりました。
調べていると、一人一人のご先祖と対話しているような気持ちになったり、わからない事があると不思議とヒョンな所から答えが見つかり、近くに先祖がいるのではと感じる事もありました。又、地域や多賀大社との関係が深く、今はない特殊な仕事をしていた一族だったとわかって来ました。
まだ途中報告のようなもので、素人が作っていますので、読み辛い事も多いと思いますが、子孫の皆さんに読んで、伝えて頂ければ幸いです。
●ざっくり、三銀蔵について
▪ 三木家は江戸時代まで、本家の岩田家と共に甲賀小佐治の社僧(修験者)も兼ね、代々多賀信仰を全国に広めた「多賀坊人(たがぼうにん)」の一族だった。
▪ その活動は、信頼関係で結ばれた「多賀講」の基礎になっていた。
▪ 明治政府の神仏分離政策の後、多賀に移り住み、神主になった。
▪ この蔵は、文政十年 (1827)現在の多賀大社の参道に建てられていたものを、昭和八年 (1933)多賀大社大造営時に三木銀治郎が買い受け移築した。
▪ 最後の「多賀坊人(たがぼうにん)」の子孫としての役目を、叔父の三木直治が終え、今は無き幻の職業となった。
▪ 三銀蔵に遺る古文書・資料から、今まで語られる事がなかった「坊人」の姿や、違う側面からの多賀大社の歴史が詳らかになった。
▪ この屋敷の建物は、当時の戸主が桜田門外の変後、維新の志士・伊
藤博文らと彦根藩との明治維新の秘史を今に伝える貴重な建物。
●名前の由来
▪ 『三銀蔵』の三銀とは、三木銀治郎の略
▪ 蔵の色々な物に『三銀』と焼印が押してある。
▪ 銀治郎の
・多賀大社の門前を守るという強い気持ち
・多賀大社の為に一生懸命活動した事
・坊人の代表の一人として矢面にたっていた事
・多賀の文化や発展に尽くしていた事
などから敬意を表し、今回この蔵を『三銀蔵』と名付けた。
●三銀蔵の取組み
しかしながら、この冊子は「三木銀治郎物語」ではなく、母屋から出てきた物や銀治郎より前の祖先や兄弟の歴史、三木家や本業であった「坊人」の事、母屋の建物の歴史など、多様な内容になっている。蔵の名称だけでなく、以下の取組も含め「三銀蔵」と活動名とする。
筆者が「三銀蔵」の活動に取組む理由
現在の三銀蔵の当主、三木しげ子からは、夫の従妹の娘という遠い存在。
若い頃に母屋を店舗に改装する時にインテリアのプランを作ったり、この家の改装やメンテナンスを実家の (株) マルトがしている事もあり、当初は工務店としてお施主様の家の「まもる・つなぐ・しまう」という建築後のサポートとして、三木邸を訪れました。
三木本家には跡継ぎがおらず、当時 91 才だったしげ子にとっては、手に負えない状態になっていた蔵を見てみると、地域の歴史にとって貴重な資料がありそうだとわかり、多賀町文化財課に見てもらう事から、この活動が始まりました。
しかしながら、実際には自分自身の祖先を知る長い旅に出たような状態になり、家系図を描いてみると三木家の動ける血縁者として上位に食い込むポジションだとわかり、唖然としつつ、先祖に仕組まれたさだめと観念して、子孫の皆さんに「つたえる」為に、この冊子を書くことになりました。「本家しまい」の一つでもあります。
少しでも御先祖を近い存在に感じて頂ければ幸いです。
第一章 ルーツを探せ !
第一章では、一枚の紙切れから NHK のファミリーヒストリーばりの私たち子孫が知らなかった驚愕のルーツがわかるまでを紹介します。
ネットの短い情報に慣れてくると、この冊子はとても読みづらいので、簡単にまずダイジェスト版でまとめる事にしました。興味がなければ次の章に進んで下さい。
ダイジェスト
以下、本編
1-1 いざ ! 甲賀へ
01 ●えっ ! 三木じゃなかったの?!多賀ではなく甲賀? !
三木本家の資料の中に、何かの下書きのようなものを見つけました。
今の漢字に直すと「履歴略伝」(内容は、次のnoteで)
三木真行の略歴のようです。
ん?真行って誰?
漢文で書いてあり、もう一つ意味が理解できません。
すると、昔の戸籍謄本が出てきて、三木淇内 ( きない )の亡父とありました。淇内はそれまで知る範囲で一番古いご先祖様(私からは曾祖父)でした。
つまり、真行は、更に古いご先祖様、発見となります !
「文化 8 年 (1812 年 ) 甲賀郡小佐治生まれの真行は若い頃、京都で商いの仕事をしたのち兄の岩田秀久の仕事を手伝い…同郷の三木家存続の為に養子に」とあります。
三木ではなく、ルーツは「岩田」だったようです。驚きです。
しかも、甲賀ですって・・・。
02 ●神主ではなく、お坊さん? !
甲賀と言えば忍者が思い浮かびますが、甲賀町小佐治も忍者 ( 忍び )で有名な甲賀二十一家に数えられた佐治氏が治めていた町です。
あらっ、忍者だったのかもと少々期待に胸が膨らみました。しかし、三木と言えば神主の家系。小佐治にある佐治神社と関係があるのではと思ったのですが、この「履歴」には兄の岩田秀久と「多賀不動院の配札」とあります。お札 ( ふだ ) を配る仕事という事です。
更に、亡くなった人につける戒名には、名前の前に僧侶のしるしの「権
律師真行」となっていて、向山の天台山頂に埋葬とあります。天台宗のお坊さんなのか?しかし、神式でお祭りしているとも書いてあります。
いや、そもそも「多賀不動院」なんて聞いた事はないし、現代でも小佐治から多賀までは車で 1 時間もかかり、お勤めしていたとは考えにくいです。
どういう事? 訳がわかりません。という事で、とにかく現地へ行ってみる事にしました。
03 ●ルーツを探しに、いざ甲賀へ !
多賀から国道 307 号線を南下して小佐治を目指しました。
小佐治の農協に市民センターという看板があり、入ってみるとありがたい事に小佐治在住の佐治さん ( 佐治氏の末裔の方でしょうか ) がおられました。
まず、略歴にあった「向山という所にあるお墓はご存知ないか」と尋ねると、わからないとの事。
では、他にお墓はどこにあるのかと尋ねると、自分の菩提寺 ( 常楽院 ) の墓で「三木」という名前を見たことがあるので、その菩提寺をみてくれている近くの浄善寺を訪ねてはと教えて頂きました。( 常楽院は佐治氏の菩提寺
ですが普段は無人なのだそうです。)
浄善寺を訪ね木下和尚にいきさつを話すと「覚えがある」との事でした。そこで場所を教えて欲しいというと「いやいや、普通とは違うから案内するので車に乗せてって」との事。なんて、親切なご住職。
ご先祖のお導きがあるのか、こんなにスイスイ見つかるなんてと感謝しながら運転していると、佐治氏の菩提寺ではなく逆に進み、お墓に至るまでの道のりは、なる程、案内してもらわないと絶対行けない、そして特別な場所だとわかりました。
多賀大社の向いの山を向山というように、佐治神社の向いの小高い山に向い、頂上で車を停め、人一人が通れる程の山道を入って行きました。
04 ●お墓発見 ! 信長に焼かれたお堂跡? !
和尚の後をついて山道をしばらく行くと空間が開けました。
「あんたのとこは、400 年さかのぼれるかも。あー、ここには小さなお堂があったんやけど、焼かれてしもてな。信長に…」
クラクラして言葉になりませんでした。
時間軸が違い過ぎる !織田信長に焼き討ちされたと。
ちよっと、由緒がありそうで嬉しかったのですが、更に 400 年も前の先祖が調べられると言われても、とても手に負えません !
信長ではなく、秀吉に焼かれたのではないかという話もあるそうですが、どちらにしても西暦 1600 年以前の話です。
さて、とうとう到着です。お墓が見えます !
少ない・・・。
どうも、わが一族のみの墓地のようです。
奥の一角には、古そうなお墓がたくさん並んでいます。
「やっぱり、おたくは天台宗やったみたい」
丸みを帯びているお墓は、天台宗なのだそうです。この地域は平安時代に最澄が延暦寺をつくる為に木を探しに来て信者が増えたそうで、山岳信仰のメッカです。
山伏、修験者の可能性が大です。
入口の一角は、現在の佐治神社の神主さん「布知永家」のお墓がありました。
そして、その間 ( 天台宗と神道の二つの一族の真ん中 ) にポツッと 三木真行のお墓がありました。お墓の裏には、下書きで見た真行の略歴が書いてありました。
ここに、いつもお参りして頂いている方がおられるという事で住職が連絡をとって下さっていたので、ひとまず墓地の写真を撮って そちらのお家へ向かいました。
05 ●混乱。違うルーツの「岩田さん」?
このお墓に参って頂いていたのは、岩田幹也さんという方でした。
三木家には、真行の他にもう一人、小佐治の岩田家から三木家に養子に来たのが、「三銀蔵」の三木銀治郎です。真行からすると孫娘「さだ」の婿養子になります。
少々頭が混乱していましたが、ありがたい事に、岩田幹也さんは大正 8年 (1919 年 ) 生まれ、当時 98 才でしたが、とてもしっかりされていました。
ただ、お参りして頂いていたのは親戚だからではなく、真行の兄、岩田秀久のひ孫にあたる「岩田英磨」と同級生で、第二次世界大戦で特攻隊として亡くなった友である英磨を思っての事だったそうです。
しかし、幹也さんの父親の姉、てつさんが、英磨の父真一の先妻だったそうで ( 若くして死亡 ) 古い戸籍謄本をお持ちで、三木の本家の更に本家の岩田秀久の子孫の事がわかってきました。
岩田家は真行の子である淇内一家と共に行動し、多賀へ引越した形跡もありました。
06 ●本家のつとめ
この小佐治の真行のお墓については、実はちよっともめた事があったそうです。
どなたかわからない方が当時多賀大社の神職だった三木直治の所へ「墓が傾いている」と言ってこられたそうです。お墓の裏に「履歴」を書くというのはあまりスタンダードではないと思いますが、きっとその話もされたのでしょう。「墓」か「石碑」かわからないけれど、これから何かある毎に自分たちの子供や孫にそのような要求をされても困るだろうと、触れない事にしたそうです。その気持ちもすごくわかります。
「三木」という苗字をついでいるのは本家以外に 2 家族になりました。だからといって本家ではないのに代々の「三木家」のあれやこれやを子孫に負わせる訳にはいかないという親心です。
しかし、平成 10 年 (1998 年 ) に夫の真太郎が亡くなり、一人で多賀の三木本家を背負っているしげ子は、銀治郎の実家の方にお願いして、直してもらっていました。10 万円を渡し、完成した写真も送ってもらったとの事。そして、出来ればそのお墓にお参りしたいとの事でした。
本家を託されたしげ子にとっては、大切な事だというのもわかりました。
という事で、板挟みになったので、先の「小佐治突撃訪問」は、こっそり隠密にそのお墓の捜索に向った時の出来事でした。
結局、こっそりにはなりませんでしたが、実際にそのお墓の前に立ってみると、まだ見ぬ未来の同じ血を継ぐ子供たちが、自分のルーツを知りたいと思ったとしたら、ここでその情報の伝達を絶やすことは出来ないなと思いました。
そこで、何人かの親戚に声をかけ、もう一度ちゃんとお墓詣りをして、
色々とルーツをたどる事にしました。
07 ●再び、大勢でご先祖様をめぐる旅へ
2016 年 11 月末、しげ子はじめ、親族と定番の多賀のお土産「糸切り餅」を持って、銀治郎さんの実家、お墓、お寺…等々、廻ってきました。
驚きの発見がいくつかありました ! 後から詳しく書きますが、甲賀と多賀大社はきっても切れない関係で、岩田家、三木家は多賀大社の歴史にとても関係があるという事で、多賀町文化財課の方も同行して下さいました。
まずは、銀治郎の生家 ( ルート 2)へ
佐治神社とお墓のある丘がバッチリ見える小高い場所に岩田嘉昭邸はあります。しげ子の夫、三木真太郎の父親の銀治郎は、岩田家 ( ルート2) の四男で三木家に養子に来て下さいました。その銀治郎の長兄のお孫さんが嘉昭さんです。
過去帳を拝見 !
過去帳というのは、毎月毎日お経をあげる為にある物のようで、日にち別に江戸時代も昭和も月は違っても同じ日に亡くなった人が一括りになっています。
しかも、古い方は何歳で亡くなったとか、生前はどういう名前で、誰とどういう関係かというのがわかりません。更に、判別が困難なのが当家 ( 岩田家 ) の特殊な事情によるもので、同じ名前を何度もつけていたり、寺院の名前 ( 真蔵院 ) で表記してあったりします。
しかし、いくつかの貴重な事がわかりました。
08 ●ルート 1.2 は同じご先祖
岩田秀久 ( ルート 1) の古い戸籍の写しに「真蔵」とあります。又、岩田幹也さんから岩田秀麿が父 真一が亡くなり青島 ( 中国 ) から帰ってこられてから住んでいた場所を「真蔵院」といったと聞いていました。
ルート 2 の銀治郎の生家の過去帳にも「真蔵院」がいっぱいです。どこで、つながっているかはわかりませんが、明らかに同じ祖先を持つ家だとわかりました。
亡父 岩田秀久の横にチラッと「弟 藤吉 ( 真行 ) とあります。
つながりました!!!
名前には 「秀」「真」が使われる事が多いようです。
09 ●大越家?えーまだあるの !
過去帳の名前 ( 戒名 ) を見て愕然としました。「大越家」とあります。
先祖が、三木ではなく岩田だったことでも調べるのが大変なのに、岩田は実
は大越 ( おおこし ) さんなの?と、思わず「もう、勘弁してください」と言葉に出てしまいました。
さっそく、同行していてくれた多賀町文化財課の佐野さん(現甲賀市歴史文化財課)が調べて下さいました。
すると、「修験者なんかの立派な位につくものみたいですよ !」と。
そういえば、横には「阿闍梨(あじゃり)」とあります。比叡山で千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)をした高僧についています。
「大越家」は「おおこしけ」ではなく「だいおっけ」と読むそうで、山伏の階位の中で、山岳修行を36回以上したという最高の位なのだそうです。
なんだか、すごいご先祖様だったみたいです。
山伏、決定ですね。
オマケ
佐野さんからは、多賀の歴史にとって貴重な氏族なので、資料などが分散しないよう留め置き、できれば 街角博物館のようにした方がいいとアドバイスを頂きました。そのおかげで、色々な事がわかったのですが、資料が膨大すぎて、大変です(笑) しかし、 古物商に売れないものの方が、貴重で大切なことがわかりました。
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