佐目04-歴史探索 佐目氏の末路と木地師
佐目01-歴史探索 「02-佐目氏は和氣氏より出づ犬上郡佐目村に住し氏とす」 に、多賀の佐目から、永源寺の佐目に「佐目和気氏」は引っ越した事を書いた。
いつ頃、なぜ移動したのか。その事で佐目はどうなったのか。そのあたりを探りたいと思うが、はてさて。
まずは、文献に残る「佐目殿」を追いたいと思う。
01-佐目氏は和気氏より出づ犬上郡左目村に住し依て氏となす
近江愛智郡志. 巻2 昭和4年 滋賀県愛智郡教育会
国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号 77
昭和4年に発行された『愛智郡志』のこの部分は、木地師の氏子狩りを行った『大岩助左衛門日記』を元に書かれており、少なからず、ちょっと間違っていたり、ごまかしたんじゃないのという事が多くの歴史家から指摘されている。下記に、気になるヶ所を ひとまず※〇太字に。
佐目氏は和気氏より出づ犬上郡左目村に住し依て氏となす。
小椋谷に移住せし年代分明ならざれども 小椋谷が※1奈良大寺の所領たりし時より、※2大岩氏と共に六ヶ畑の荘官として諸役や陣夫赦免の勢家たりとみゆ。後ちに小倉氏幕下に属し君ヶ畑越の見付役となる。
大岩日記に佐目殿には、ほそ洞の尾より東小屋の段山をしやぎり洞限に宛下し、其上左目畠の地子銭を除き給ふなりと見えて其役料の地をを與へられしをいふは※3小倉氏の賜地なり。
明応2年(1493年)3月 川上山の争論に犬上の甲良畑を征したる佐目左衛門尉あり。然るに※4永禄8年(1565年)に君ヶ畑、蛭谷、箕川三郷と佐目氏との間に争いことのありしにや三郷して佐目氏を殺害せしるとみゆ。
一、佐目殿 ---和氣氏--- 兄 衛門太夫 永禄8年に畑3郷として害す
--- 弟 理鍖
とあり、永禄6年観音騒動余波各郡武士間に動きたれば、小倉右近太夫の乱に影響せしや。その後の記録に佐目氏見えず。
※1 奈良大寺の所領
「佐目氏」の次に、木地師で有名な「大岩氏」の項が続き、そこには
「奈良知行の時より以来、六ヶ畑の荘官職」であったとある。
六ヶ畑とは、君ヶ畑(きみがはた),蛭谷(ひるたに),箕川(みのかわ),政所(まんどころ),九居瀬(くいぜ),黄和田(きわだ)である。
奈良大寺の所領と奈良知行は、同じようで違う感じがしたので調べてみた。
近江愛智郡志. 巻1 コマ番号49
愛智郡は、名の通り「依智秦公」が開墾した地域だが、永源寺の佐目は、愛知川左岸になり、昔は神崎郡山上村で、高屋郷 柿御園庄 大安寺領だったようだ。近江神崎郡志稿. 上巻には、佐目の事は見つけられなかった。
奈良時代の近江というと、聖武天皇が742年 甲賀郡に紫香楽(信楽)宮を造営し、盧舎那仏(大仏)を造営することを発願したが、結局、747年 奈良東大寺で大仏の鋳造が始まっている。761年から造石山寺所という役所のもとで石山寺の造営も国家的事業として行われている。
前回紹介した 佐目和気氏と同じ皇室の子孫である愛智郡の蚊野別(公)は、以下のように、東大寺建立の後早くに、東大寺の寺領となり、天平宝字六年(762年)石山寺造立用の年貢米を送っている。
蚊野別(公)は、少領であったのに、擬大領の秦公より上の位であり、世襲の名門とある。
聖武天皇のこの数年の動きを見れば、近江が大騒ぎだった事は想像に難くない。永源寺の佐目は、後、柿御園にあったともあり、その当初は大安寺領の荘園だったそうだが、国家プロジェクトとして、木材や鉄、その職人などがどれ程必要だったかを考えると、佐目氏の項に「奈良大寺の所領たりしころより」とあるように、皇室の子孫の佐目和気氏にも、ミッションが与えられたであろう事は想像できる。
大仏創建を任された「四聖」の一人、行基は製鉄の伝承が多く全国から集めているが、もちろん近場の近江からもかき集めたと思われ、その頃、佐目氏は多賀だけでなく、山づたいの永源寺に進出したのではないだろうか。
後に紹介する『永源寺佐目文書』の伝承にも出てくるが、この行基の活動の後「薬師如来」の国家的な信仰が大衆へ浸透してくる。この文書に、インドの話が出てきて、頭の中に「???」がいっぱいになったが、行基と共に「四聖」の一人であり、東大寺大仏殿の開眼供養法会を婆羅門(バラモン)僧正として導師を務めたのが、南インドのバラモン階級に生まれた菩提僊那(ぼだいせんな・ボーディセーナ)だとわかり、腑に落ちた。
※2 大岩氏と共に六ヶ畑の荘官木地師
ずっと、同じ地域に二人も荘官がいるという事があるのか?と、実は疑っていたので、大岩氏が奈良知行だった可能性はあるのかと調べてみたが「奈良知行」自体の意味がわからない。が、とにかく奈良時代からこの地域を支配していたと大岩氏は伝えたいのだと思うが、どうも先祖がはっきりしない。
滋賀県の民俗学者 橋本 鉄男氏 (著)『ろくろ 』によると
大岩氏の祖先と伝わる 惟喬親王小椋谷時代 第一の従臣 太政大臣藤原実秀は存在が確認できないとの事。そもそも、惟喬親王(844-897年)は、奈良ではなく平安時代の人である。大岩氏は元々小椋姓なのを「大岩」にしたとあり、その小椋姓を調べても、清和天皇(850-881年)が祖であり、こちらも平安なので、奈良時代まではわからない。
橋本氏の『ろくろ』には、蛭谷の惟喬親王伝説は、岸本村蔵人家伝本を借りたとある。2020年発行の『惟喬親王伝説を旅する』中島伸男著 には更に詳しく書いてあり、大岩氏は借りたのではなく『惟喬親王御縁起』を1639年に銀1130匁で買ったのだそうだ。この本を拝読すると、木地師の惟喬親王伝説のすべてが本当だとは言い難いが、本当に惟喬親王、もしくは「みたいな方」が永源寺や多賀にいらして、少なくとも、私達の地域の歴史と先祖の営みに深く染み込んできている事はわかった。今まで知り得なかった事がいっぱい書いてあり、木地師関係では必読書である。
そもそも、平安時代に惟喬親王についてやってきた、太政大臣藤原(小椋)実秀の子孫だというのに、奈良時代にこの地域の荘官をしていたというのは、どっちにしても辻褄が合わない。
→ 実は、惟喬親王にこだわらなければ、藤原実秀は存在する。これは、又。
奈良時代は、墾田永年私財法にて 私有の土地 初期荘園ができ、愛智(えち)郡は名の通り、開拓者である越智秦(えちはた)公が力を持っていたが、東大寺、興福寺といった寺等の奈良大寺に寄進され、愛智(えち)郡の場合、殆どが荘園となり、国司が管理する土地は少なかったと『近江愛智郡志. 巻1』にある地図には、永源寺あたりは興福寺領とある。
奈良時代の46代孝謙天皇の内侍(女官)に沙沙貴山君の名があり、皇室との関係をつくりつつあったようだ。沙沙貴山君は名の通り「山君」で、蒲生あたり湖東南部から湖南の山を治めていたようだ。鎌倉時代から現れる佐々木氏は、この頃はまだいない。
犬上郡は、既に犬上県主はおらず、犬上氏が大領となっている。
その中の大滝、佐目、三国は甲良郷だった。
平安時代に惟喬親王が生まれるずっと前から、木地師のろくろの技術はあり、法隆寺には、秦氏の名が入ったろくろの技術を使ったものもあるそうだ。
奈良大寺とのゆかりも愛智郡なので、技術集団だとしたら秦氏とのゆかりも無視できないし、そもそも、『大岩日記』は佐目氏が滅ぼされた後に書かれており「惟喬親王御縁起」を買う位なので、大岩氏が話を盛って「奈良知行」と書いた可能性も捨てきれないが、その大岩氏が 「佐目殿」と敬意をはらって頂いている所をみると、やはり良いお家柄だったのだろうという事がわかればヨシとしよう。
※3 小倉氏の賜地
その後、佐々木氏が、沙沙貴山君や紀氏等、古代豪族と婚姻等により結びついていき、鎌倉時代に近江守護となっている。
1191年、鎌倉時代初期、延暦寺山門と佐々木氏が荘園の取り合いをし、佐々木氏が負け連座して大岩氏の祖と思われる岸下十郎遠綱投獄され、後に「柿の御園・栗田・小椋荘下司職を賜っていた。」とブログのコメント欄に子孫の方が書いておられた。
近江守護佐々木氏の郎党であり、下司職というのは荘園や公領において、現地で実務を行う役目である。大岩氏につながるかまではわからないが、
近江愛智郡志. 巻2 コマ番号59 に 小椋・小倉氏の家系図がある。
この後、小倉氏は分裂し、この家系図は蒲生の小倉氏につながる。近江愛智郡志では、岸下十郎遠綱の五代後に小椋村領主とある真邦は否定されいる。
ご多分にもれず、応仁の乱あたりで、同族同志で戦い、その後小倉氏が歴史に出てくるのは1450年以降で、丁度その後、1454年、小椋一族が 筒井峠から石ヶ瀧北に移住し「大岩」に改名している。
小椋氏だという大岩氏が『惟喬親王御縁起』を岸下氏に求めたのも、ルーツにつながるという事で理解できる。が、
この筒井峠って、どれだけの山奥なのかと思ったら、多賀と永源寺の丁度境目のあたりになり、犬上ダムから永源寺に行く時の通り道にあり、よく通っている場所だった。
※4 君ヶ畑、蛭谷、箕川三郷に佐目氏殺される
木地師の資料を読んでいると、どこをどうごまかしたのか みたいな事を考えながら読まなくてはならないので、かなりゲンナリしてくるのは、やはり佐目氏がなぜ殺されたのかを知らないうちに探しているからなのだと思う。
上記『大岩日記』=蛭谷 の他に 木地師の根元として氏子狩りを行った「君ヶ畑」の『木地師の沿革』という資料がある。
この2つの資料は、佐目氏が殺された年代と 殺害した村も違う。原文が書いてある資料がわかったので、その部分を抜粋。
『近江国小椋郷』田中新次郎著 抜粋 「木地師の沿革」
明応年間(1495-1501年)に、犬上郡大君ヶ畑甲良畑と君ヶ畑領川上山について山論起り、御池ヶ嶽皇子平にて取合を 生じたり、此時此郷ノ庄官役和気佐目殿は君 ケ畑大皇大明神の縁起書を以て答瓣し大勝利を得落着せり。
佐目殿此争論に大功ありしをて犬上郡霜ヶ原を此郷中より庄官領に贈るりたり、当時佐目殿は神崎郡と犬上郡に庄官領ありしかば今は村名に其の名を留む。
かくて永正年間(1504-1521年)に至り蛭谷、石ヶ竜(滝)、箕川の者、徒党して佐目殿を殺害し、其の所領を奪ひたり、其の所領を奪ひたり、是より郷中大に乱れ、互に反目し事を構ふる時代となれり。
蛭谷(大岩日記) : 君ヶ畑
殺害時期 / 永禄8年(1565年) : 永正年間(1504-1521年)
殺した人々 / 君ヶ畑、蛭谷、箕川 : 蛭谷、石ヶ竜(滝)、箕川
当初、蛭谷の大岩氏が、正直に蛭谷の者が殺したと書いているのに驚いたが先に書いたように
1454年、大岩氏(小椋)は筒井峠から石ヶ瀧北に移住
1576年に 石ヶ瀧から蛭谷に引っ越している
つまり、年代的に大岩氏は、まだ蛭谷にはおらず、君ヶ畑が首謀者だといいたげで、君ヶ畑側は、いやいや もっと早くに 蛭谷と石ヶ竜、つまり大岩氏がやっちまったんだぜ ほんとは! と言いたげな伝承だ。
更に、もう一冊 佐目氏が殺された顛末が書いてある本が見つかった。
調べている順なので、わかりにくくて申し訳ない。
『木地師支配制度の研究』 杉本 壽著 の「愛智太山草の研究」
『愛智太山草(えちのみやまぐさ)』というのは、蛭谷にある帰雲庵住職が1597年に書いた文章を、1649年に京都吉田神社より認証をもらい、氏子狩りをはじめた名プロデューサーの大岩重綱が1700年に、各地の小倉家の家伝を参考に増補して刊行されている。
これのおかげで、いくつかの疑問が解けた。
・この川筋に、春日神社と若宮神社が多いのは、奈良領 つまり奈良大寺(東大寺、興福寺等)の寺領の時に勧請した事
・奈良時代は「従昔」、奈良領の時は「中古」であり、何でもかんでも「奈良時代」と書いてはいけない。
・つまり、奈良○○というのは、鎌倉時代になり、近江を佐々木氏が支配し、寺領が奪われる前 (承久の乱1221年あたりか)までの時代を言う。
・そして、ありがたい事に、佐目氏が亡くなった日がわかり、おまけに法名と共に永源寺に弔われている事がわかった。
02-佐目氏は、永正二年(1505) 5月18日に亡くなった!
この『愛智太山草(えちのみやまぐさ)』の下巻は、木地師の氏子狩りをはじめた大岩重綱氏が、佐目氏が亡くなってから約200年後に書いたものなので佐目殿とは書いていないが、佐目氏を殺してしまった事は、
「末代まで村のいたみになりぬる。」とある。
ただ、話を総合すると、二回、殺されているのではないかという気がしてきた。
とりあえず、その部分を抜粋するが、大岩重綱氏の想像や解釈がかなり入っている事を念頭に読む必要はある。
『木地師支配制度の研究』 杉本 壽著 の「愛智太山草の研究」
第三節 愛智太山草 下巻 古記ノ才子(1597年帰雲庵住職作)増補大岩重綱
家伝に昼澗(ひるたに)村といふは享徳三年(1454) の六月に大岩助之亟実儀筒井より石ヶ滝に始めて来り在居する。
彼地の墾(陰)地に平あってこれを先ず開作して営む。 此家の正統を年老ては代々助殿尉と書ける。実儀法名石滝院雪山正林といふによって開作之畑の字となし、今に正林畑といひて大岩氏が名畠也。又石ヶ滝といふは在所の下なる愛知川筋にあり、文禄五年 (1596) の大水に滝のかた崩れて今は淵となりぬる。
其後、※1佐目衛門尉といふ者も筒井より昼滝に来て在居しける。(※1 唐突に差し込まれている、其の後とはいつ?)
右(上)の二人左は当郷の何(あかし)某(※2なぜ佐目氏と書かない?)にて、往古此三庄奈良領の時より六ヶ畑の庄官職にて万惣公事等赦免の農士也。
六ヶ畑といふは君ヶ畑・昼谷箕川・政所・黄和田・九居瀬也。中古の本郷は観音城屋形の旗下小倉殿にて(※3 1455年以降か)、彼二人の荘官職を屋形の命にて君ヶ畑越の目代に任ぜられ、二人の私領、畑、薪山の員数を定めて土貢を除き給ふ。
去によって当村のうちに字佐目畑、正林畑、荘官領という山の名ありぬる。本郷小倉殿後には両家に立って当郷より収納諸役等は、大昔南都(※4 興福寺の事か)百姓の例を以て六ヶ畑に百姓株十五人にて、上三郷に五人、下三郷に十人也。年頭、歳末、夏秋山度の見舞又は元 服出陣凱陣等の臨時の礼式迄右の通り十五人の株割なり。
目付家に心得あるべき事当山へ軍勢の来るを防げと仰有る時には岡井峠、筒井峠の山岨に石を集め置て待受けよ。此二ヶ所は先を遠く見晴らして良き処なり。道筋には木を伐伏せ或は梯子を落し、或は山の尾崎に大石を起し又は大木を伐りつだね置き、まくりかけの用意肝要なり。
次に明応二年(1493)の三月に当郷川上山の一義につき甲良畑と取合いける時、佐目左衛門尉、大岩助殿尉此両人を大将にて筒井蛭谷村・君ヶ畑・箕川の者共手柄をしたるが、(※5 君ヶ畑の『木地師の習俗』には、別の書き方がしている) 討死したる者の子には万惣公事をゆるす筈に書留して、同月十六日の取合に大利を得る。 此時箕川道善といふ者に諸公事をゆるしける。本所小倉殿より吉沢孫太郎勝直(正)を乱所まで見舞を給る。其後犬上郡甲良畑より詑言して山手銭を出す筈に相極手形をとり今に相違なし。
又 永正二年(1505) 5月18日に箕川・昼谷・君ヶ畑三郷の者共(※6 君ヶ畑の『木地師の習俗』には蛭谷、石ヶ竜(滝)、箕川とある)、徒党して彼二人の荘官職を破り可中と両人は使を立てければ、(佐目)左衛門尉 (※6愛智郡志にある名前)合点のなき故に今晩謀(たばかり)て害しける、去によって助殿尉は使の趣き承引する、誠に往昔奈良領よりの圧官職を乱世に至り、家頼等まで同心して破る事沙汰の限りの事なれども、多勢に無勢なれば是非なき仕合也。
此両人は屋形より直(ぢき)の目代にて当郷の代官河副 (かわぞ)孫(三)太郎、 作久良太郎兵衛も荘官職をいやに思ひ、両殿へも内意を含め詮議の躰は屋形への恐れをかねる計りに見へて 小倉右衛門尉殿より九井瀬太郎衛門元重といふ者を使として、只以後の沙汰ばかりを堅く郷中ヘ申付て相済されける。
佐目左衛門尉 去年助貞(※7 有名な刀工?)に刀を打たせる筈の約束して(せしを)此正月に出来て持参したる処に有次といふ陰陽師が申けるは、貴所の当卦離中断にて艮の卦の禍害を血刀とよむ故に、正月に刀を求めて悪しき年なりといへども、佐目はさのみ気にかけずして拵へて差しけるが、案の如く刃難にあふ時彼刀に手を掛けて相果てたるとなり。
此家屋敷と荘官領の山をば鳥目(硬貨の名)三貫文にして右衛門太夫といふ者に売て郷中の者どもの酒手にする。下地の畑は当村の家並に配分するにより、今字を「分地」とも「佐目畑」ともいふなり。此畑を慶長七年(1602) の検地に奉行鈴木平左衛門尉の才覚にて大縄にうたれけるは上畑 四段八畝
也。今地面を見れば二段ばかりの畑なり。
因果は車の輪の如し末代まで村のいたみになりぬる。佐目の霊魂が恨みをなすによって後代に至り、永源寺にて弔い「見性院心庵宗善居士」を授け給うよし家伝に見えたり。
天文十九年(1550)10月11日 昼澗(ひるたに)村の朝日山、向山渓の道、其外所々の山ぬけ出る事夥敷(おびただしく)、大川をつきとめ海の如くになり箕川村の宮を船のように河水にうけてながしける。『江源武鑑』に曰く、今日諸国の山々崩る昔日を尋ぬるに永和(天授)三年(1377)8月20日山の崩る事有り、神武元より今日に至って山の崩る事両度とあり、天正三年(1575)の九月に大岩(丗代)重秀石ケ滝より昼澗に在居してよめり。
03-鈴鹿山地の鉱山と 佐目氏
「君ヶ畑」の『木地師の沿革』に
「明応年間(1495-1501年)に、犬上郡大君ヶ畑甲良畑と君ヶ畑領川上山について山論起り、御池ヶ嶽皇子平にて取合を 生じたり、此時此郷ノ庄官役和気佐目殿は君 ケ畑大皇大明神の縁起書を以て答瓣し大勝利を得落着せり。」
とある。これは、鉱物資源の争いだったと私は思っている。
六角高頼が、動き出した頃である。すると、検索でひっかかった。
『平成29年(2017) 東近江市歴史文化基本構想_報告書 第4章 関連文化財群とテーマ』P40 ぜひ、元データをご覧頂きたい。
<一部 抜粋>
享 保 19年(1734 年)に成立した『近江與地志略』からは、佐々木六角氏による白銀探査と発掘が行われていたことがうかがわれる。「君ヶ畑共有文書」によれば、君ヶ畑村 をはじめ政所、蛭谷、箕川、九居瀬、黄和田村の六ヶ畑から鉱石製錬に必要な炭が供給 されていたことが記されており、これらの村々にとっては木炭が大きな収入源となって いたことが分かる。しかし、君ヶ畑の銀山は寛永年間(1624~1645) をピークに 70 年ほどで閉山となったと考えられている。
政所蓬谷鉱山の歴史は更に古く、明治時代に記された『多志田山及南河内山来歴書』 によれば、永正元年(1504 年)に既に操業している。
この資料の中の地図をお借りして、佐目氏の関係ヶ所を追加した。
ここに書いてあるのが、明智家を佐目に配置した「六角高頼」だ。
『多志田山及南河内山来歴書』が私にはわからないが、治田銀山のあたりらしく、どの資料だか忘れたが しつこく治田は三重側からの言い方で、こっちからは違う名前だい!! と書いてあった。
後に、ここの鉱山は有名になるが、何かしら「見つけていた」のではないかと思われる。木の取合いで、殺し合いまではしないのではないかと。
永源寺の佐目の川(今は、ダム)向こうの九居瀬には「鍛冶屋」という小字名がある。いつの頃からかわからないが、製鉄した製品を出荷するのには、持ってこいの場所である。
先にも掲載したが「君ヶ畑」の『木地師の沿革』に
明応年間(1495-1501年)に、犬上郡大君ヶ畑甲良畑と君ヶ畑領川上山について山論起り、御池ヶ嶽皇子平にて取合を 生じたり、此時此郷ノ庄官役和気佐目殿は君 ケ畑大皇大明神の縁起書を以て答瓣し大勝利を得
とある。この時、佐目殿は、大君ヶ畑ではなく、君ヶ畑を優位に導いたのだ。大君ケ畑にとっては裏切り行為に思えたかもしれないが、ちゃんと縁起書を持ち出し、公平になるようしたのかもしれないし、その時、大君ヶ畑は自分の領地ではなかったのかもしれない。
当時、多賀大滝は、甲良氏が山から木を出し、一ノ瀬か流しで搬出していたとあり、佐目の隣村の霜ヶ原を庄官領としてもらったとあるので、たぶん、大君ヶ畑は、庄官領ではなかったように思う。
とにかく、大きな利権が動く時である。
その後、他の荘官も、この事件をきっかけに荘官職をいやに思ひやめていったとある。六角家臣の小倉氏の指示かもしれないが、戦国の世なれば致し方ないと思われる。悲しいけど。
又、この事件で、大岩氏が「縁起書」の重要性を認識した事は間違いなく、一生懸命、縁を頼って手に入れようとした事も、理解できる。
木地師の愛知郡の小椋村と、当時は神崎郡だった佐目とはエリアが違うので、神崎郡志も読まないといけないのかと思うと、ゾっとするが、次回は、「永源寺の佐目村」の歴史について、調べたいと思う。
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