1-1 ルーツを探せ !多賀坊人て甲賀の忍びなの?(2)
このマガジンは、今はなき「多賀坊人(たがぼうにん)」の一族の歴史と文化を調べた未発表の冊子を公開しています。
前回は、こちら
10 ●いよいよ、三木家のルーツのお墓へ
三木真行のお墓
私の祖父の実家から出てきた なぞの 三木真行の履歴書と なんだか石碑があるらしぞ との噂から、あてもなく突撃訪問した甲賀の小佐治。もっと、前の先祖までわかり、三木本家を守ってきた しげ子と親戚で再び訪れました。
後からわかったのですが、明治政府によって神社で活動している社僧や修験道が禁止された事は、岩田家三木家にとっては青天のへきれき、お家の一大事だったようです 。が、真行(私の4代前)は明治になる直前に亡くなったので、その時の大変さは知らなかったと思われ、ちょっと救われた気持ちになりました。
亡くなった時は神社が神仏習合の時で修験者(たぶん天台宗に属していた)でしたが、明治維新後は三木家はしばらくして神道になり、お墓は息子の淇内(私の曾祖父3代前)と孫の謙吉(祖父の長兄)が建立したので、お墓の形は神道特有の上が四角スイになっているタイプです。
さて、こんな場合はどの宗教でお参りすれば良いのかと悩んだ結果、同
行したそれぞれに自分の宗教で拝む事に致しました。もちろん、最初は
三木家をついでいる子孫 ( しげ子と治夫 ) から神式で。さすが、本職の
神主さん。どことなく威厳があります。
本家で見つけた紙に書かれていた「履歴略伝」は、本当に下書きだった
ようで、お墓の裏に書かれていた内容と微妙に変わっていたり追加され
たりしていて更に色々新しい発見がありました。後ほど、まとめて説明
します。
小佐治の本家、岩田嘉昭さんによると、このお墓の面倒は小佐治の三木さんの役目になっていたそうですが、傾いてもそのままだったので自分が多賀の三木に連絡をしたとの事でした。
岩田家代々のお墓
奥の方は、かなり古く文字も読めそうにありません。一般のお墓の形と違います。卵形のお墓は無縫塔(むほうとう)と言い、主に僧侶、、高僧、特に開山僧の墓塔として使われ、寺持ちの家系が多いそうです。「卵塔」とも呼ばれています。
お墓の位置や広さ占有率から見て、やはり岩田家が中心の墓地のよう
に思われます。嘉昭さんがポツリと
「うちのご先祖やったんか…」と。
岩田家 ( ルート 1) 最後のお墓
岩田家代々のお墓の一角、左手前の二塔は、比較的新しくお墓の形が違います。古い奥の方が岩田真一、釜子夫婦のお墓 ( 右写真 )。手前が二人の長男
「英磨」の墓です。岩田幹也さんが友としてお参り頂いていたお墓で、昭和 57 年に弟の芳英さんが建立されています。
このご一家は、後にわかったのですが、真行の兄秀久の子孫になり、三木家とは確実に血のつながった方々です。秀久の息子・真蔵は多賀大社の後、神戸湊川神社につとめ、孫の真一は中国青島の日系工場で亡くなっています。非常にご苦労をされたご一家で、2017 年2月お墓に書いてあった芳英さんの奥様と連絡がとれ、お孫さんがおられるという事で岩田家は続いています。
しかしながら、奈良にお住まいという事と諸事情により仏教に変更され、既に二塔とも「魂抜き」をされて改葬されているとの事でした。ですので、この先、ここにお墓が建つ事はないように思います。とはいえ、このお墓が残っている事で手がかりがつかめ、歴史が次の世代につなげました。家紋は「丸に井桁」のようです。
因みに、淇内が亡くなった時に長男・謙吉の計らいにより英磨一家へ心ばかりの遺産分けがされたという資料がありました。淇内からは従兄の子供にあたりのます。交流されていたのですね。
すでに、その時ご両親がなくご兄弟二人で母親 ( 彦根出身の釜子 ) の弟 大阪で陸軍幼年学校の校長をされていた斎藤家にお世話になられていたようです。釜子の父・普春は各地で宮司もされ、国学者、歌人でもありました。兄の秀麿は、昭和 16 年に中国信陽で戦死。大阪朝日新聞に記事が載っていて、お葬式は佐治小学校で行われ、弟の芳英は天涯孤独となったと自分史に書いています。芳英はは特攻機の改造機の引渡しに同乗した時に京都淀飛行場の端に落ち、肩を痛め入院中に終戦になったとの事。その後、松下 ( 現
Panasonic) にお勤めだったそうです。いくつか、集めた資料があるので いずれ紹介したいと思います。
11 ●ところで、小佐治の三木家は?
今の常識で考えると、真行は三木家継続の為に養子に行ったので、三木家のお墓に入るのが筋のような気がしますが、実家の岩田家専属の墓地に一緒に入れてもらっています。どのような事情があったのでしょう。
そもそも、どういう関係があって、三木家に養子に行ったのでしょう。血
縁としてのルーツの岩田家の事は少しわかってきましたが、小佐治の三
木家の事はまださっぱりわかりません。
という事で、先日のお礼も兼ねて、皆で再び浄善寺の木下和尚を訪ね
ました。
永代供養、依頼済み
ご住職が三木真行の名前を憶えておられたのは、三木から永代供養をお願いしていて、命日にはお経をあげて頂いてるからなのだそうです。
さすが、ご先祖様。抜かりはありません。きちんと、やるべきことはやって、甲賀から多賀に移られたのだと感心しました。ですので、子孫の皆様、ご供養に関しては心配ありません。
お寺にある三木家の過去帳は、今の所同じ三木でも親族であると確定されていませんので、個人情報保護の点から複写出来ないとの事でした。しかし、帰ってから写真のデータを見ると、チラッと写っておりました。画像ソフトでゆがみを調整すると「三木治右ェ門、三木治三郎」等々が見えます。
昭和 30 年の銀治郎宛の年賀にも三木治一郎と。
「治」には見覚えがあります ! 真意の程はわかりませんが、昔は親族に同じ一字をとって名前をつけました。たぶん、この一族ですね。
多賀の三木家の長男には、直治、治夫。三木から木下に嫁いだ大伯母の長男にも木下家につく長と三木家の治で長治という名があります。
直治という名はお多賀さんでつけてもらったと聞いているそうですが、頂くのは一字だったそうです。それを考えると、三木真太郎の「真」は岩田家の「真蔵院」の「真」ではないかと推測されます。
ルーツ探しにはありがたいシステムです。
12 ●伝説になっていた淇内屋敷
戸籍に淇内が住んでいた住所が載っていたので、事前に甲賀市役所に行き調べましたが、昔の住所が今のどの地番に該当するのかが定かでなく、わかりませんでした。もし、何らかの形で土地や古い家屋があった場合は、お墓の時のように多賀の三木を訪ねてこられても、相続をしておらず事情も知らない子孫が将来困る事になります。本家がある今のうちに対処が必要だと考えました。
とにかく、先ほどの三木家の過去帳のご子孫を訪ねる事にしました。
滋賀県甲賀市甲賀町小佐治 三木治俊さんとお母様。昔は薬を売っていたらしいが亡くなった父 ( 治右ヱ門 ) からは殆ど何も聞いていないとの事でした。やはり「治」がついていますね。
この住所を探しているというと
「たぶん、淇内屋敷のあたりかな」と、治俊さん。
狂喜乱舞しそうになりました。淇内の名前は伝説の地名になっていたようです。さっそく、行ってみました。今は何もありませんが、人が暮らしていた場所だというのがわかりました。
ここで、淇内の子供のうち、謙吉、誠三、義介、さだまでが生まれ育ったと思われます。私の祖父、淇久夫は多賀で生まれています。
現在は、三木治俊さんが管理されているそうです。
よかったよかった!
13 ●地図で見ると一目瞭然
三木家に関係する城と神社と寺と墓
親族に関係する場所は、佐治神社を中心に直線で 250m 以内にあります。又、お寺やお堂のあったお墓も含め高台にあり、そこから愛宕山 ( 佐治城跡 ) や周囲が見渡せ、昔は軍事的役割があった場所なのではと思えます。
佐治氏と佐治神社
佐治氏は、佐治城 ( 愛宕山山頂 ) を本拠として中世の近江を生きた豪族で、戦国時代からは、甲賀二十一家と称される古い歴史をもつ武士です。
鎌倉時代 (1330 年位 ) に領主となった時に、守護神として小佐治大明神 ( 現在の佐治神社・前ページ写真 ) をつくりました。江戸中期延享元年 (1744 年 ) に再興された建物は現在 (2018 年 ) に至ります。
御祭神は多賀大社と同じ「伊邪那岐 ( イザナギ ) 伊邪那美 ( イザナミ ) の命
」と出雲大社と同じ「大穴牟遅神(おおなむぢ)= 大国主」です。豪華ラインナップですね。
明治維新までは、多くの神社は〇〇大明神という名前がついていて、神社が出来た時から神仏習合で、社僧 ( しゃぞう・お坊さん ) と神官 ( 神主さん ) が同じ神社にいてもおかしくはありませんでした。多賀大社も同様です。
江戸の終わりまでの長きにわたり武家社会でしたので僧侶は神職に比べて重要な位置を占めていたと言われています。
甲賀では山岳信仰の拠点だった飯道山の修験者が村々に定着して神社の社僧として世襲の司祭者になっていく事もよくあったそうです。
明治政府の方針で神社の中にある仏教系の寺や関係書類は排除 ( 焼かれたり、壊されたり、他所に移動 ) された所も多くありましたので、岩田家が佐治神社に関わっていたとしても、資料が出てこない可能性もあり証拠を見つけるのは今後の課題になります。今の神仏が分離されているのが当たり前の感覚で判断してはいけないようです。
佐治城と常楽院
常楽院は、応仁2年(1486 年)佐治氏の菩提寺として建立されました。
天台宗でしたが、永正 (1504 ~ 1521) 年間に浄土宗に改宗しています。佐治氏の墓地が寺裏の高台にあり、小佐治にお住まいの岩田家も三木家も常楽院が菩提寺だそうです。しかしながら、お寺を継ぐ方がおらず隣の浄善寺で常楽院の檀家の方もお世話になっておられます。
昭和 48 年常楽院の再建の時に銀治郎が寄進をし、佐治為信氏よりのお礼の手紙がありました。お名前から察するに、佐治氏の本家筋、織田信長の妹、市の娘、江の最初の嫁ぎ先のご子孫か(後ほど)
14 ●甲賀 21 家 佐治氏と岩田家の特別な関係
話は後先になりますが、2018 年 ( 平成 30 年 ) 8 月お盆。小佐治で生まれ、真行の墓を建てた謙吉の孫・典子を案内して三度目の小佐治へ行き、全開、行けなかった佐治城主・佐治氏及び、現在の小佐治の岩田家・三木家の菩提寺「常楽院」へ行くと、刑事ドラマでよく
「現場 100 回。答えは現場にある」
と言っていますが、まさに以前は見えなかったものが見えて来ました。
お墓は語る
常楽院への階段を上がってすぐ左手のど真ん中にドーンと「岩田 ( 嘉昭 )
家」(三木銀次郎の生家)のお墓があり、常楽院においては佐治氏に次いで重要なポジションであったのではと推測出来ました。右が岩田幹也家で、左が河合家と、家系図に掲載した家が並んでいます。
又、岩田 ( 嘉昭 ) 家・三木家・河合家のお墓には、「先祖代々」の上に同じマークがついており、調べてみると「キリークという梵字」だとわかりました。密教系 ( 修験 ) が使う事が多いそうですが、阿弥陀如来を表し、天台宗、浄土宗どちらも使うそうですが、三家が刻んでいる意味もあるのではと思います。
岩田家の過去帳では、戦国時代までさかのぼれませんでしたが、お墓のポジションを見ますと、忍者と言われている甲賀 21 家の佐治氏と岩田一族の関係は深く、佐治氏の歴史的な動向と共に「岩田家・三木家」は歩んできたのではと思われます。
甲賀古士 佐治氏と多賀大社の戦国時代
当時は、忍者などと言われてなかったと思いますが、佐治氏は 桓武平氏流 平安時代の康平年間に、上総介平維時の子・業国がはじめて近江佐治庄を領して佐治氏を名乗ったと伝えられています。
「鈎の陣」(1479年)にて六角氏に味方した甲賀の地侍で、六角氏より感状を貰うほど信頼が厚く、後の甲賀流忍術の中心となった甲賀二十一家(こうかにじゅういっけ)の一つで、甲賀古士ともいわれています。
甲賀は確たる主君がいないというか、ある意味、「惣」という自治組織が強く、自立自衛の意識の元、飯道山の修験僧が多賀大社や熊野大社の「坊人」になって行きました。
佐治氏と多賀大社の年表を並べてみました。どちらも、時の権力者とつながりがある事がわかりました。
15 ●大野佐治・信長・秀吉と 三木家担当地区
私が小さい頃、伊勢志摩へ親族と旅行に行った時に、この辺りの島は多賀講(多賀坊人)の三木家の担当で、祖父もよく来ていたと聞いた事があり、大変だなぁと思うと共に、どうしてこんな不便な小さな島にまで来たのだろうという疑問が頭の片隅に残っていました。
現在の佐治氏・岩田家・三木家の菩提寺である「常楽院」の事を調べると、昭和 48 年常楽院の再建の時に三木銀治郎だけでなく、サントリーの佐治氏も寄進されている事がわかりました。養子になられた佐治家のルーツという事でお願いされたそうです。( 創業者・鳥井信次郎の次男敬三。苗字と資産を継いだ感じのようですが、理由は不明 ) 愛知県常滑にあった大野城主になった佐治氏 ( 大野佐治 ) と関係があり、甲賀の佐治氏はその本家になるとわかりました。
応仁の乱の後、知多半島の一色氏の重臣として招かれ、下剋上で大野城主になった大野佐治氏は、伊勢湾の制海権を堅固に守っていた水軍をもっていた事もわかりました。
なるほど! 三木家が伊勢志摩の島々に、ご縁を頂いた理由がわかりました。どんな小さなご縁も活かすのが「多賀坊人」です。
大野佐治の水軍は、織田信長から必要とされ、三代目(五代目説もあり)の佐治信方に信長の妹「犬」が嫁いでいます。「信」の字を信長からもらう位です。更に、犬の姉であり浅井長政と結婚した市の娘・江も、佐治信方の息子 一成と結婚しています。
図にしてみました。戦国超豪華ラインナップです。
信長は、天下布武の為 湖北(浅井)甲賀(佐治)だけでなく 多賀大社にもネットワークを広げています。何通かの信長の書状が多賀大社には残っていてます。下の信長の朱印状は、
「多賀坊人は全国自由に活動してもいいけど、高野聖(熊野三山の修験)はだめ! 」
というもので、原文の画像は切れてしまったけれど、最後の「不動院」宛 というのが、当家にとっては大事になります。
当時は、神仏習合。多賀大社にあった不動院が実権を握りつつある頃で、江戸時代には不動院の使僧もしていたとの当家の記録があるので、こういうご縁からご先祖が動いたかもねと妄想しています。
この御朱印の解説文には
「かかる一連のものは、諸国徘徊という特権があるから、戦国諸侯に利用され、間諜としての役目を帯びた場合が多かったであろう。信長が高野聖の徘徊を禁止したのは、その用心からであり、多賀坊人の旦那廻りを許したのは、その利用からである」
と、あります。やっぱな! という感じです。
一般的な忍者のイメージと違い、多賀坊人は正々堂々と、表玄関から諜報活動ができたという事です。が、諜報活動なので表に証拠が残る事はまずないと思われますが、不動院付きの多賀坊人の一番の裏ミッションは、多賀大社の造営の時の資金を集めることであり、各々の旦那である武将の為に働き、坊人同士でもどこを廻っているかは門外不出の情報でした。
話を戻しますと、佐治一成と江はその後、離縁させられ 甲賀の佐治氏も大野の佐治氏も本能寺の変の後、秀吉につきますが、徳川家康に通じているとして 天正13(1585)年に秀吉によって甲賀破議による理不尽な領地没収命令が出され、佐治為祐は甲賀で最後まで戦ったのですが攻められ落城しています。
前回、
“04 ●お墓発見 ! 信長に焼かれたお堂跡? !”
と、住職から教えて頂いたのは、以上の情報から「秀吉に焼かれた」方が正しいような気がします。
話は、少々ずれますが、多賀の敏満寺も、大方は浅井長政に焼かれているのに「信長に焼かれた」と通説のようになっています。どうせやられるなら、かっこいい方がいいのかしら(笑)
他の佐治氏の系図
さて、その後の甲賀佐治氏の事が気になっていました所、多賀坊人の出身地で有名な甲南町磯尾の郷土の歴史を調べておられる 薬学博士 眞岡孝至さんより、公開してもよい資料をお送り下さいました。もちろん、坊人のご子孫であり、さすが 薬関係のお仕事をされていることに感動しました。
明治維新以降、甲賀に留まられた「坊人」と、当家のように多賀大社近くに引っ越し、修験から神道に改宗した家では違う所もあり、双方勉強になる事も多いのですが、その話はいずれまた。
三重大学で
「甲賀の坊人と薬業-甲賀に薬業を育んだ江戸時代の里修験について-」
をお話をされている動画がありますので、ご覧下さい。
今回は、戦国あたりの後に磯尾に移られた佐治氏の系図のみをご紹介します。佐治氏の方も、その後 多賀坊人をされていたのがわかりました。
次回は、1-2 ご先祖様は、こんな人 です。