佐目01-歴史探索 和気佐目殿と犬上君
01-はじめに
明智光秀近江出身説を調べる途中で、出てきた多賀町佐目の歴史。
残念ながら、佐目の村からは今の所、江戸以前の文書などは殆ど出てきていない。昭和の多賀町誌にも佐目文書というのはない。
しかし「ない」という訳ではなく、調べられていない、もしくは、詳らかにする事を拒んだのではないかと思われる。
先祖の歴史を知る中で、村に対しての小さな「誇り」がいくつも生まれ、縄文後期から人の営みが続いているのに、こんな便利になった世の中で、村が消滅に向かっているのは、実に申し訳ない気持ちになった。
2020年に「つなぐ。-驚きの佐目の歴史と明智光秀伝説-」として2回にわけて動画を作成したが、その時、調べきれなかった事などを中心に、せめて自分にできる事をとメモをここに残す事にした。順不同、自分の為のメモのようなものなので、お許しを。
02-佐目氏は和氣氏より出づ犬上郡佐目村に住し氏とす
昭和4年発行の『近江愛知郡志』に
「佐目氏は和氣氏より出づ犬上郡佐目村に住し依て氏とす」
とある。今は、東近江市。永源寺ダムに沈んだ 同じ「佐目」という名の兄弟村にいた佐目氏の事が書いてある。
気を付けないといけないのが、この内容は木地師で有名な蛭谷の『大岩助左衛門日記』を元に書かれており、更に古い記述があったと言われ敵対していた君ヶ畑の『木地師ノ沿革(籔地平左衛門日記)』と、色々異なる点があり、双方の信ぴょう性の検証が必要だが、君ヶ畑の『木地師の沿革』にも
「この郷の荘官役和気佐目殿は」
とあるので先にすすめる。
とにかく、同じ名前の村が多賀と永源寺という 鈴鹿山脈の山のあっちとこっちに存在し、佐目氏は最初、犬上郡の佐目から名をつけた荘官・代官で、小倉氏の伊勢越えの代官として一番最初に名前が上げられる氏族だったという事がわかる。
この文には、佐目氏が殺されたというのが、永禄8年(1565)となっているが、個人的には、君ヶ畑の『木地師ノ沿革』の永正年間(1504-1521)を採用している。これは、またの機会に。
近江愛知郡志 (昭和4年 滋賀県愛知郡教育委員会 発行)
巻二 第八編 武家志 第十三章 小倉氏
第一節 小倉氏と伊勢越各谷の代官
(一) 佐目氏 (二) 大岩氏
国立国会デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240250
コマ番号 77 (P100)
03-和気氏は、ヤマトタケルの妃の実家か?
和気氏について 一番詳しく書いてあったのが 古代豪族を調べられている方のサイトにあった 和気氏考 だ。その中に
ところで一般的には、古代の氏族を語るとき「和気氏」と言ったら上述の「和気清麻呂」の一族だけを特定したことにはならない。幾つものその出自を異にする和気氏が存在する。
11垂仁天皇子供「鐸石別命」を祖とする和気氏が清麻呂に繋がるのである。これ以外にも12代景行天皇皇子を祖とする和気氏・倭健命の子供を祖とする和気氏などある。
因みに上記の和気氏で一番有名な「和気清麻呂」は紙幣になっている。
国立印刷局 お札と切手の博物館より
つまり、和気氏とは、元は天皇家から「別(ワケ)」たという意味で、皇族を意味するようで、
「景行天皇皇子を祖とする和気氏・倭健命の子供」には、バリバリ思い当たる。
04-犬上氏 地元の伝承から佐目氏との関係を推測
ヤマトタケルは、『日本書紀』では「日本武尊」、『古事記』では「倭建命」と表記され、その息子 稲依別王(イナヨリワケ)の母親が
「近江の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の祖先の意富多牟和気(オオタムワケ)の娘の布多遅比売(フタジヒメ)」とある。つまり、和気氏はヤマトタケルの妃を出した家という事だ。別も和気もワケと読む。
稲依別王は、犬上氏、建部氏の両祖と言われ、こんな近くに○○和気氏と婚姻関係がある氏族がいた。
和気氏の中の誰かが、犬上郡の佐目に任務を帯びてやってきて、元々あった「佐目」という村の名前を名乗ったのか・・・。もう少し調べてみる。
ヤマトタケルが実在した人物かどうかはわからないし、家系図も信用たるものかは不明だが、犬上神主、後、多賀大社の大神主をつとめた
「犬上氏」の家系図、が昭和8年発行 多賀神社史にあった。
景行天皇 →小碓尊( 日本武尊=倭建命)
|| | →稲依別王 →武鼓王→犬上郡大領
意富多牟和気 →(娘) 布多遅比売
↓
古代豪族和気佐目氏 へと続いたか。これも課題。
〇 犬上 春吉 近江国犬上郡大領 従七位
〇 犬上神主 犬上氏岳 仁和元年(885年)7月 卒(死亡)
今でも続く犬上氏
詳しくは、又 別の機会にまとめたいと思うが、犬上神主の家系は一度途絶えている。後、菅原道真の子孫 西城坊家が跡をつぎ「犬上・菅原・川瀬」という名字を使い分け、多賀大社の大神主として明治の神仏分離令まで務められ、明治になり神仏分離、国家神道化する為に、大神主の犬上氏は多賀大社から出され、摂社の宮司に移動させられたが、150年の時を経て、2015年犬上氏の子孫が明治から数えて17代の宮司になられた。
お名前は、犬上神主初代の字を継がれたのか犬上岳(たけし)と言われます。
2019年に 多賀大社宮司として亡くならました。
1100年以上のすごい歴史。
05-犬上御田鍬との関係は?
犬上氏が 平安時代の885年頃に 今の彦根市、犬上郡の大領だった事は確実。いや、まてまて、犬上氏で有名なのは、大和朝廷の外交官として、遣隋使、遣唐使と2回も行った「犬上御田鍬(みたすき)」と、神主の犬上氏の関係はどうなんだろう。
Wikipediaには 犬上御田鍬は
推古天皇22年(614年)6月に矢田部造(名不明)とともに最後の遣隋使として隋に渡る。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国した。舒明天皇2年(630年)8月に第1次遣唐使の大使として、薬師恵日と共に唐に遣わされる。
とある。
少なくとも、推古天皇の時、614年には既に、朝廷内でのポジションを獲得している事がわかる。
佐目氏は、永源寺佐目の資料には「奈良知行」だったとある。奈良時代と言えば710年~784年。
犬上御田鍬 614年 から 犬上春吉 884年のちょうど 真ん中あたりには 既に永源寺に佐目氏はいた事になる。佐目氏の動向を知る手がかりの一つである事は間違いないはず。又、十二相神社のご祭神のヒントもないかなと。
うっかりしていたが、佐目の十二相神社は、犬上神社のある大瀧神社の末社で、私は氏子だったという事に今気が付いた。犬上神社の由緒「犬胴松」の伝承に ちゃんと稲依別王が この地を犬咬= 犬上と名付けよと言い、稲依別王を祀っているとある。その絵が室町あたりに多賀坊人が多賀大社の布教に使った『多賀参詣曼荼羅』にも描いてあるが、もう一説があり、稲依別王ではなく、普通のおじさんの絵になっている。
1114年 源頼朝 白石郡・犬首郡を「犬上郡」に命名という伝承もあるんだけど、これいかに。
06-犬上氏も和気氏も天皇ゆかりの氏族
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)
平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑がある。
新撰姓氏録と上代氏族史(太田亮 [著]) 国会図書館デジタルコレクション
面白そうだが、探すのは大変なので 以下のサイトを参考にした。
北川研究室 『新撰姓氏録』氏族一覧1(第一帙/皇別)
『新撰姓氏録』は畿内(山城・大和等)の氏族のみで、当時 滋賀・淡海・近江は東山道に含まれているので、すべてが掲載されているわけではないが、あった!
○第一帙(皇別)天皇家にゆかり
○第二帙(神別)神様にゆかり
○第三帙(諸蕃・未定雑姓)渡来系等
と、わかれている。
犬上氏も和気氏も○第一帙(皇別)にあり、天皇家ゆかりの氏族という事だ。
83 左京 皇別 犬上朝臣 朝臣 出自謚景行皇子日本武尊也 164
和気氏は やはりいくつかあるが・・・
158 右京 皇別 和気朝臣 朝臣 垂仁天皇皇子鐸石別命之後也
330 和泉国 皇別 和気公 公 犬上朝臣同祖 倭建尊之後也 209
あらあら、犬上氏と同祖 倭建命(=日本武尊) とあるではないか。
これがまとめられたのは、平安時代初期の815年。
犬上氏は京都左京区
和気氏は和泉国にいた。大阪府和泉市に和気町がある。
和気朝臣 とは別に 和気公とある。
『新撰姓氏録』がつくられた815年には、佐目和気殿は、多賀の佐目から永源寺の佐目に移っているし、その後15世紀まで永源寺にいた。うーん。
07-佐目和気氏って、4世紀には佐目にいたのかも
と、ここで なぜか今まで見ていなかったWikipedia 「ワケ」より
ワケは初め皇族の子孫、とりわけ軍事的指導者(王族将軍)で、地方に領地を得た者の称号として用いられた。その中心時代は4世紀前半の垂仁天皇から景行天皇およびヤマトタケルが日本を支配した時期である。
垂仁天皇の子孫7人、景行天皇およびヤマトタケルの子孫31人のワケを始祖とする氏族が存在した。景行紀に「70余子皆国郡に封ず。--77王は、 悉く国々の国造、また和気及び稲置、県主に別け賜ひき」とあり、皇子の中には国造や県主と並んで地方領主となりワケのカバネを称した者もあるが、ほかの多くの皇子は国造などから領地の一部を得ただけで、その後家系が途絶えたものと考えられる。
4世紀後半の成務天皇および仲哀天皇期にはワケの称号をつけられた皇子はほとんど見られなくなる。これは皇子に分け与える領地がなくなったためとも考えられる。
景行天皇 →小碓尊( 日本武尊=倭建命) →稲依別王 → ?→犬上郡大領
? → 和気氏
※公式な宮内庁発表の天皇系図によると、11代垂仁天皇-景行天皇およびヤマトタケルの子供の14代仲哀天皇前までは、紀元前29年~西暦192年までとなり、4世紀前半とはならない。この時代の事は、ヤマトタケルの存在も含め、まだまだ解明されていないのと、『古事記』『日本書紀』は、盛り気味につじつまを合わせているので、実際との乖離が生まれる。
「5世紀前半允恭天皇の氏姓制度改革により臣連制が作り出されると、ワケはキミ(君)やオミ(臣)のカバネに変更され、それ以来は使われなくなった。」とあり、どちらにせよ、4世紀以前には、佐目和気氏になっていたでよいのではと思う。犬上氏初出の『日本書紀』に614年 遣隋使 犬上君御田鍬 とあるので、ヤマト王権の地方官としての地位にあり、佐目和気氏はそのまま「和気」を使っていたという事は、出世をせず(笑)中世まで鈴鹿山脈の村々で暮らしたのだろう。
08- ありがたい! 古代天皇の即位年を西暦に変換
確証がある「ブツ」が出て来ないので、誰も古代天皇が生きた本当の西暦を数字で表せない。
と、そこに ロータリークラブの活動をされている眼科医の田中毅氏が計算された資料を見つけた。正確かどうかはわからないけれど、勝手に使っていいとの事なので掲載させて頂く事にした。根拠等が書いてある現物のPDFは、こちらから。「炉辺談話より引用」21代雄略天皇以降は実年数らしい。
ほんと、ありがたい。研究発表する為にこの記事を書いている訳ではないので、自分なりの比較する基準が定められる。田中氏に感謝!
天皇(※即位年)で自分用に参考として、今後記入する事にする。
08-まとめ 佐目氏とは
・佐目氏は、皇族の子孫である。
中世になっても、永源寺では「殿(どの)」と呼ばれている。
・ヤマト王朝より、領地を与えられた。
犬上氏、近江の安国造、和泉の和気氏でもない。
景行紀の77王の流れではあるが、国造などから領地の一部を得ただけ
( ただし、当時王朝は畿内とその周辺しか力が及んでいない)
・領地は、鈴鹿山脈の湖東地域だったのでは
多賀から永源寺にスルッと移動し、その後も大瀧地域に関係している。
「佐々貴山公」など、ヤマトに近い山林を治める氏族がいた。
中世も、佐目は佐々木六角氏の息がかかっており、吸収されたか。
・佐目氏が来る前から、多賀では古いタイプの製鉄が行われていた。
左目一眼の童子の伝説により、佐目という村の名前が出来た。
その村の名前により、佐目和気氏と名乗ったという言い伝え。
まだ、犬上氏が力を持つ前から、佐目氏には領地が与えられていた。特定は出来ないが、ヤマト王権が出来たのは、ざっくり西暦250年頃ではないかと考えられており、『古事記』や『日本書紀』(記紀)は、その征服の歴史でもある。その成立は712年、720年と言われており、その時にヤマト王権内で誰が力を持って勝組みの歴史を書いたのかが大切なのだそうだ。
弥生時代、犬上郡にはこれと言った遺蹟がない。
4世紀になり、ポツポツと出てくるようだ。
それには、神代の話ではあるが「鉄と稲作」と多賀大社の御祭伸、伊弉諾の大神が関係してくるようだ。
そして、犬上の「犬」は、製鉄に関わって働く人を表すという推察もあり、又、隣の米原では製鉄に関わりのある「息長氏」も有名である。
と、言う事で 次回はそのあたりを考えてみたい。
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