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お多賀杓子の由来と多賀坊人

NHKの番組で、『なぜ、お玉は「お玉」いう?』と、お多賀杓子と多賀坊人の活躍を取り上げて下さいました。

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答えは、「お多賀がブームになったから」と、多賀坊人の活躍が火付け役だったと。又、すごく大切な事を伝えて下さいました。さすが、NHK。

多賀坊人の蔵「三銀蔵(さんぎんぐら)」(母方本家)から出てきたもの物から、資料を作っていましたので、合わせてご紹介したいと思います。長くなりますので、目次だけでも 御覧ください。

01.「お多賀杓子」は、祈りが込められる唯一の道具

番組で、國學院大學大学院 客員教授 新谷尚紀氏が
・お米の事を「稲魂(いなだま)」と言った。
お魂(たま)杓子  → お多賀杓子(おたがしゃくし)
という過程を説明下さいました。

多賀大社でご祈祷して頂くと、以前は必ずお多賀杓子が入っていたので、我が家にはいっぱいお多賀杓子がありました。当たり前に、ごはんをよそったり、煮炊きをする時に使う「道具」としてしか見ていませんでした。プラスチック製の「しゃもじ」が出てくると、木の多賀杓子と違い くっつかないので、いつしか出番がなくなっていました。

しかし、調べていくと、奥様の事を「山の神」と言うがごとく、日々の暮らしの中で、唯一、主婦が「祈り」を込めて使える道具だったとわかってきました。

「今日も、一日 健やかに過ごせますように」
「早く、病気が治りますように」
「試験に合格しますように」
などなど
家族、一人一人にご飯をつけていたのです。

祈りが込められる唯一の道具が お多賀杓子だったのです。

ご飯をよそう道具としてしか見ていなかったので、反省し、勿体ない使い方をしていたと気が付き、プラスチック製のしゃもじから、お多賀杓子に再び戻しました。水に濡らすというワン工程が増えるだけです。

02-お多賀杓子の由来

 多賀坊人が多賀講の皆様にお持ちしたり、多賀みやげとして一番有名だった「お多賀杓子の由来」を調べると、神代の時代を除いて多賀大社の年表でもかなり早い奈良時代に登場します。

・多賀坊人は、広告代理店のルーツ

多賀参詣曼荼羅(たがさんけいまんだら)』に 飯盛木が描かれているのを見て、多賀大社が「病気平癒, 延命長寿」の神様として全国に名をとどろかせるセールスポイントの基礎になったと気が付きました。

多賀参詣曼荼羅は、多賀坊人の営業ツールです。ビジネスに結びつかない絵を入れるはずはありません(笑) 多賀坊人は、祈祷もしますし、占いもしますし、薬も調合しますが、今で言うところの広告代理店であり、ツアーコンダクターです。

私の先祖は、多賀大社を主に運営していた「不動院」付きの役僧だったようです。檀那(お客様)の為なら諜報活動もしますが、神社からお給料が出るわけでなく、自分の食いぶちは自分で稼ぎつつ、一番のミッションは多賀大社の建物を建てたり、直したりする時の資金集めでした。つまり、どれだけ多賀大社が必要とされる存在であるかを、伝えなければなりません。

多賀参詣曼荼羅web飯盛

お多賀杓子 - コピー

今も男飯盛木、女飯盛木の二本が敏満寺のはずれにあります。昔の絵葉書にもなっていました。

 「元正天皇( 養老717 年-723 年)《天武天皇(大海人皇子) の孫娘になる女性天皇》が病気になられた時、神山の枎栘( シデ) の樹で「飯しゃもじ」を
作って、蒸飯につけて献上したら病気が治った。
」と多賀大社の社伝に記されているそうです。

 古い資料を見ていると、至る所にお多賀杓子や飯盛木の事が載っています。(『淡海禄』元禄2 年『犬上郡誌』明治12 年 等多数)

・元正天皇はあでやかで美しい女性

今、改めて Wikipedia 元正天皇 を読んでみると

天武天皇11年(682年)8月28日に、氷高皇女(元正天皇)の病により、罪人198人が恩赦された(『日本書紀』天武天皇11年8月28日条)

とあります。氷高皇女(元正天皇)は680年生まれ、つまり女性です。父は天武天皇持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇とあり、この時の事であれば、2才という事になります。罪人198人が恩赦された程、病気平癒を祈られた事がわかり、その後、元気に活躍されるので、幼子の時だったのかもしれませんね。

既に、多賀大社は天皇家に伊邪那岐大神の降臨地として認識(5世紀)されていましたので、ご祈祷の依頼があったのでしょう。

NHKでは、壷阪寺の元正天皇の絵を紹介されていました。

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日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。

「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔に「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。

歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承
が行われた。 この皇位継承は、父が草壁皇子であるため、男系の血筋をひく女性皇族間での、皇位の男系継承である

今も、皇位継承について色々な議論がありますが、元正天皇がどのようなお気持ちでおられたのかと思うと、少し胸が痛くなります。

重源((1121-1206)が、東大寺再建を実現できるよう延命長寿を祈願、大願成就を果たし、御礼の参拝に訪れた事で多賀大社は「延命長寿」のご利益で有名ですが、元は「病気平癒」の祈願からはじまったのですね。

・古文書にみる お多賀杓子の由来

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上の写真は、昭和8 年発行の多賀神社史にあった写真で、右が古来のお多賀杓子だそうです。左の今の杓子と随分形が違いますが、オタマジャクシの語源が「お多賀杓子」だというのも、古来の形を見ると納得できますね。

現在、左は「杓文字(しゃもじ)」でご飯をよそう道具、右が「杓子( しゃくし)」で汁ものをよそう道具と分類されるそうですので、本来ならば、今のお多賀杓子は「お多賀杓文字( おたがしゃもじ)」と言わねばならないのかもしれません。

『多賀町史』下巻P479 には、明治26 年頃当時の宮司 芳賀真咲により描か
れた多賀杓子由来図・沿革略図もあり、明治時代には既に、今とほぼ同じ平
たい形状になっていたようです。(先にも<別資料です>書きましたがこの芳賀真咲宮司について岩田真造が神戸湊川神社に同行しています。)
昔の多賀杓子はヒョウタンのカーブの様な形とあります。今のごはんと違
い、強飯とあり蒸していたので、昔はもっとパラパラだったそうで、この形
状が必要だったのでしょう。

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・日々三度の食事にこの神物を清らかにし、飯を盛るにも慎みをもって過食することがなければ、自ずと無病長命なり

又、いつの時代かわかりませんが、次のような由緒書きも出てきました。

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多賀杓子の由来をわかる範囲で訳しますと
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 多賀杓子は清くうるわしき神木で 匏(ひさご・ ヒョウタン) のような丸みにして飯を盛る為の神物として、大昔から本社に伝わっており、この神物を尊んで「御多賀杓子」といっています。お釜杓子、お玉杓子などというのは世俗の訛りです。匏は即𠮷葛の実。

大御神に深い縁があって、このように神物になりました。本社の御神宝に「みひ」といって奉る器がありますが、これも又この匏でつくられています。

 元正天皇が御病気の時、ご飯も召し上がれない程で、当社に平癒の勅願が
あり、神職が丹精こめてお祈りして、齋火で強飯を炊き、神山の良木で杓子
をつくり、強飯に添えて奉ったところ、天皇は喜ばれて召し上がられ、神徳
著しく、以前よりも元気になられて、それより毎年奉幣使をつかわされ御奉
賽され、この時から本社の東、垂村( 四手村) の、その杓子の木を伐った山を飯盛山と称し、又、強飯を納めた大天子( 多賀尼子) に住む膳部( かしわで) が記念として杓子にした四手の木の枝を挿したのが、成長して大樹となりました。その膳部7 名の子孫は今なお大天子村にいて、その挿した樹は二株あって、大飯盛小飯盛といい繁茂しています。

 このように由緒ある杓子なので、旧形を模造し信仰をこいねがう求めに応
じて授与するようになってきたもので、日々三度の食事にこの神物を清らか
にし、飯を盛るにも慎みをもって過食することがなければ、自ずと無病長命
なりと申し伝えられており、努めておろそかにされませぬように

 多賀神社 社務所
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NHKでは、このような形状を紹介されていました。
ヒョウタン(杓子)弥生時代後期 日高遺跡出土 群馬県教育委員会蔵

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03-あったぁ! 幻の多賀杓子!

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多賀町の山間に今はほぼ廃村になっている村があり、台風の被害がひどく、長い間空家になっていた古民家を解体をする事になり、村やその家の先祖の歴史を残すべく、片付けのお手伝いに行きました。すると、何気なく「ポイ」と投げられた木の道具を見てみると、前述の明治以前の多賀杓子と同じ形ではありませんか! 更に、よくよく見てみると「多賀」にひょうたんのマークの焼印が! 狂喜乱舞致しました。

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ひょうたんの意味も、わかりますね。

 とても軽いのですが樹種を見てみると、どうもコナラのようです。持ってみると、あら削りで曲がっているのが、妙に使いやすい事がわかりました。
昭和50 年に滋賀県観光連盟( 現在のビジターズビューロー) が発行した『近江の顔 全10 巻』の7巻「『近江の伝統工芸』に 多賀のしゃもじづくりが載っていると知合いが教えてくれました。昭和ですので、平べったい「しゃもじ」だと思いますが、材料は桧が主だけれど、ミズキ、ホウ、竹などを使う事もあり、多賀大社用は荒削りが特色だとあります。

 杓子づくりは木地師の特権だった事もあるようで、多賀の大君ケ畑や南後谷、河内に木地師の伝承があり、佐目には「ロクロギ」河内にも「ロクロシ」という地名があります。不動院の開祖は、木地師で有名な永源寺に由縁がありますが、これは、とても長い話になりますので、いずれ 又。

04-江戸文学に登場する「お多賀杓子」

番組で、お魂(たま)杓子 は、地方それぞれの名称があり統一されていなかったが、多賀坊人の活躍により、全国にお多賀杓子が配られ、江戸でも有名になり、「お多賀杓子」から「おたましゃくし」になり、「お玉」、更には、カエルの子が「オタマジャクシ」と言われるようになったとの事でした。

そんなわけで、江戸の文学等にも 結構 登場しています。

・「杓子定規」の 語源

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お多賀杓子は、持つ所がグネグネ均一ではありません。実は、これが大切なんです。非常に持ちやすく、滑りにくい。わざとなんです。すくう部分のくぼみというか、少し出っ張りがある部分で重くして、逆にお鍋を混ぜたりする時に、疲れないような工夫がしています。

お多賀杓子はオタマジャクシの語源だと書きましたが、それ以外にも、この柄の部分が「杓子定規」の語源にもなっていたそうです。

「一つの標準ですべてを決めようとするやり方で、融通のきかないこと」という意味なのですが、それには、実は大切なニュアンスがあって、「曲がっている杓子の柄を無理に定規の代用し」という前提条件の意味が含まれているようです。今のお多賀杓子だと、意味がわからなかったのですが、昔のお多賀杓子ならば、納得です! そりゃ、定規には無理だわね。

・枕草子のパロディ版「まがれるもの」として登場

江戸時代1632 年の『尤のさうし( もっとものそうし)』という「…なもの」という枕草紙をもじって書かれた中の「まがれるものしなじな」に「大工のさしがね、蔵の鍵、なべのつる」などと共に「おたがじゃくし」が登場します。白い枠の部分だと思いますが、読めないですよね。

おたがしゃくし

・手強さはお多賀杓子の荒削り…スペックの高さ

 1656 年「俳諧 玉海集」俳諧書
 明暦2年(1656)刊。7冊。松永貞徳が選定した発句・付句に、弟子の安原貞室が増補して、貞徳の没後に刊行したもの。貞門の代表的俳諧書。

手強さは お多賀杓子の荒削り 
     ゆかみなりにも寿命長久


とあるそうで、荒削りで歪んでいるけれど、長持ちするのと、多賀大社り延命長寿をかけておられるのではないかと。
原文は、探せませんでした。

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 実際に、多賀の山村から出てきた江戸時代もしくは明治初期に作られたと思われる多賀杓子は、かなりすり減って変色していますが、今もとても丈夫で、実際に持ち心地もよく、軽くて秀逸な道具です。昭和40年以降に生まれた人も、小さい頃 家にあったと言いますので、お多賀杓子独特の形状や多賀大社の御利益以上に、優秀な道具として全国にその名が広まっていったのではないでしょうか。

05-杓子は護符であり、みやげのルーツ

先に少し書きましたが、その昔、杓子は誰でもが作ってよいものではなく、
護符としての意味もあったそうで修験者、更には木地師、惟喬親王が関連し
ています。木地師の中の「杓子師」

 惟喬親王(844-897) は、多賀の大君ヶ畑や南後谷、更には多賀大社の摂社
山田神社の神主大賀氏の家紋も惟喬親王に頂いたとゆかりがあります。

以前、全国の木地師が集まられた催しで、「お多賀杓子はどうなっているのか!」と木地師の子孫である小椋さんが発言されていました。多賀大社に少々関係する身としては少々心苦しくありましたが、木地師の方にとってもルーツを探る品の一つのようで、杓子削りという専門職もあったそうです。

 熊野の修験者は山で修験をしている時に杓子をつくり、修行が終わって山
を下りると、それを配ったようで「おみやげ」のルーツだとも言われていま
す。講で寺社に代参した方が帰ってくると「杓子くばり」をされていた地域
もあるそうで、観光のルーツが熊野詣や伊勢、多賀参りだとすれば、修験者
であった坊人の「杓子」が多賀大社の「みやげ」のルーツだとしてもおかし
くありません。それに、由緒がつけば天下一品ですね。

06-奥様の味方、多賀杓子

 杓子は、単なるご飯をよそう道具というだけでなく、山や食と通じ、特に女性の民間信仰の対象でもあり、杓子を持つ奥様を「山の神」というのと関係があるそうです。

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この杓子は、多賀杓子ではなく、比較的現代に近いおみやげ物かもしれませんが 大津絵 で鬼が描いてあり、おまじないのよう文言が書いてあります。杓子を玄関に立てかけ、色々なお願いをするという地域もあったそうです。

 普段、何気なく使っている多賀杓子ですが、考えてみたら家族の健康を祈
りながら、直接食べ物に関係する道具で、毎日毎回祈りを込めて使用できる
なんて、すばらしいですよね。当たり前に多賀杓子がある生活をしていたの
で、すっかりその事に気が付きませんでした。これからは、心して使わせて
頂こうと思います。

07-丑の刻参りと お多賀杓子

再び、同じ画像ですが、先に紹介した お多賀杓子の由緒に

 元正天皇が御病気の時、平癒の勅願に齋火で強飯を炊き、神山の良木で杓子をつくり、強飯に添えて奉ったところ、以前よりも元気になられて、強飯を納めた膳部 が記念として杓子にした四手の木の枝を挿したのが、成長して大樹となった

とあるのが、下の絵の木です。

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 現存している多賀参詣曼荼羅数点はいづれも旧坊人宅から出てきたもので、坊人が多賀信仰の普及と、誤解を恐れずに言うと「自分の稼ぎ」の為のカタログの役割もしていただろうと推測出来ます。

 お給料が多賀大社や不動院から出る訳ではなく、基本は自営業です。営業
力、商品、サービス内容によって稼ぎが変わり、自分が開拓したお客様( 旦
那・檀家) や地域は、その後もずっと顧客として引き継がれますので、メリットがない物を絵に入れるとは思えません。

 この飯盛木の近くのロウソクを頭に差した「丑の刻参り」の女性は、現存している多賀参詣曼荼羅のいずれにも描かれていますが、わかる範囲で読んだ解説本には、それの意味がどこにも載っていませんでした。又、飯盛木の上にどの絵にもお堂がのっています。今で言うツリーハウスですね。これも又、どの資料も触れていませんでした。謎です。

 坊人は、甲賀の飯道山で修行をした山岳信仰の密教が起源の修験道で呪術や治病、加持祈祷を行っていたそうです。今で言う星占いや家相、姓名判断なども一つの仕事だったようで、安倍晴明で有名な陰陽道もそこから影響を受けています。「呪う」とか「憑く」とか、源氏物語にも出てきますよね。悪霊を退治するのに「護摩を焚く」のも仕事です。なんか少しわかってきた気がしますね。

丑の刻参り」を調べると、「鉄輪( かなわ)」という能がある事がわかりました。この物語は京都の貴船神社が舞台なのですが、

元夫に恨みを持った女性が毎日夜中の二時( 丑の刻) に神社に現れ、藁人形に釘を打ち付けているので、神社の人から「赤い着物を着て鉄輪( 五徳) を頭にかぶって三本のロウソクに火を灯せば、鬼になれますよ」というお告げを聞き、元妻がそれを企んでいると知った呪われた方の夫が、何とかしてくれと安倍晴明( 陰陽師) に頼むというお話です。

依頼者の元夫の人形を作って、呪いが人形に転じるよう祈祷し、そこに現れた鬼となり人形代( ひとかたしろ) を襲う女性を、安倍晴明が御幣に降臨させた神様に追わせて退散させたという物語です。

 今の感覚ですと多賀杓子を宣伝する為の由来ある飯盛木に、こんなおどろおどろしい絵を描くのはいかがかと思いますが、杓子に延命長寿以外の力があるとされていたならば、この絵は「山の神」である奥様に五寸釘を打ちに飯盛木にいらしてねという絵ではなく、私たちに頼めば飯盛木に降臨された神様により、この多賀杓子を使えば願いや呪いが叶いますよとか、悪霊退治できますよとかを、皆さんが知っている「鉄輪」の物語を借りてPR したのかもしれません。

甲賀市くすり資料館 で 以前 多賀坊人の展示をして下っていました。
多賀坊人は、ほぼ 拠点は甲賀なんです。忍者と紙一重。なんで、多賀にないのだろうと、常々思ってはいますが・・・。

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そこで、こういう物を持ち歩いて、祈祷をしていた事がわかりました。
上の写真の多賀曼荼羅のすぐ下

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政府が禁止をして表立っては無くなったであろう文化もあるでしょうが、無くならないのが民間の信仰です。
多賀坊人という名でよばれなくなりはしましたが、実際に、三銀蔵からもお呪い( おまじない) 関係や引き続き色々なご相談にのっていたのだろうと想像できる家相や姓名判断の本や自前のハウツー資料がたくさん出てきました。

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 残念ながら、これらの呪術は明治政府により禁止され、ご先祖はこの仕事を失いましたが、今でもその片鱗が多賀大社の夏越し(6 月30 日) の大祓に残っています。

人形代( ひとかたしろ) に息をかけ、身体の悪い所をさすったりして半年の穢れを移した後に、境内の川に流します。 江戸時代までは、普通に暮らしの中にあった加持祈祷とお多賀杓子の違う使い方が、明治政府に禁止された事によって、公けに伝わらなくなった事の一つではないでしょうか。 

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08-飯盛木と飯盛山のなぞ

 飯盛木は、三銀蔵から出てきた『淡海地誌」という1600 年代後半書かれた古書にも、既に滋賀県で超有名な木として書かれています。

 今は天然記念物ですし、多賀大社の歴史に関係するので、もちろん伐れませんが、江戸初期はもっとたくさん生えていたそうです。そのまま育っていれば樹齢1300 年になりますが、女飯盛木で推定600 年位だそうです。しかしながら、1600 年代に既に有名であり、安土桃山に描かれた多賀参詣曼荼羅にも大きく描かれていますので、もう少し古くからあった事は確かなようです。

 ところがです。樹齢もさることながら、神山の枎栘( シデ) の木は、今は
ケヤキなのです。シデの木はケヤキの類と書いている物もありますが、現
在は随分違う樹種です。

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 枎栘という漢字は現在日本では使われておらず、シデの木は「四手、幣、椣、垂」などと書きます。平地ではアカシデ、少し標高が高い所ではイヌシデ、山奥ではクマシデと棲み分け、ソロの木とも言われているそうです。
 四手という地名の語源は、神主一族は見慣れている紙垂( シデ) だと聞いた事がありますが、枎栘( シデ) の樹も花が垂れている様子が神社の紙垂( シデ) に似ているという事でこの名前になったそうです。

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先の多賀杓子の由来では、垂村の四手の木と書いてありました。枎栘の木が生えていた神山は、その後「飯盛山」と言われ、四手村の隣の山、多賀大宮山ともあり、飯盛谷もあるそうです。どの山なのかとても気になりますが、小字の書いてある地図でも見つけられませんでした。

 杓子は飯盛山に生えていた木で作ったケヤキだったのか、本当にシデの木
を使ったけれど、途中で「飯盛木のケヤキ」を使うようになったのかなど、なぞは残りますが、安土桃山時代の参詣曼荼羅に飯盛木が描いてあるという事は、坊人が多賀信仰を広める上で「ご利益」に結びつく大切な物語りだという事は理解できました。

又、この由緒のフリガナを見てみますと、飯盛山は「いいもりやま」で、二本の樹は「男女」ではなく「大小」で区別され、「おおいもり、こいもり」と言われていたようです。

 何はともあれ、昔の由緒に基づいて、出来れば飯盛山でシデの木を探し、昔ながらの形のお多賀杓子が作れると、とてもご利益が頂けるような気がするのですが、さていかに。 

09-1300年の歴史 先食台神事と膳部だった神鳥氏

さて、先の由緒書きに「膳部7 名の子孫は今なお大天子村にいる」とありますが、昭和8 年の多賀神社誌には、その内の子孫の中の一家が、まだ尼子にお住まいとあります。

つまり、この由緒書きが書かれたのは、それよりずっと前という事になります。それにしても、元正天皇が病気になられたのは西暦700 年前後ですから、膳部7 人は 1300年以上のすごい家系ですね。

江戸末期慶応4 年の「神仏分離史料」には、七膳部一郎から七郎までの名前が見え、更に別の古文書には神鳥〇〇という苗字が並んでいましたので、尼子からは出られましたが、明治初期、糸切り餅より有名だったという『寿命餅』を製造されていた「明治屋」の神鳥さんや、近年まで「神鳥長命堂」という菓子屋さんもあり、ご子孫かと思います。

 何より多賀において「神の鳥」という苗字を給わられたという事からして
も、先食台の「御烏喰神事(おとぐいししんじ)」の八咫烏と関りがあるのは当然で、脈々と膳部の職が引継がれてきたように思います。

多賀参詣曼荼羅にも描かれていて、今も 神事は行われています。カラスもいます。

おとぐい

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神事というのは、あまり変わらずに行われています。多賀まつりの神事の「強飯」は、多賀参詣曼荼羅にあるような形状でした。元正天皇の時代から 続いているのかもしれません。祈祷されたのならこんな形状だったかもしれません。

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そして、明治か大正の絵葉書には、堂々とカラスが描かれています。
まだまだ、深いぞ 多賀大社の歴史! さて如何に。

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以上。

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