暖かきもの
暖かきもの、それは
軒先のやわらかな陽だまり
飼い猫の首筋のあたり
祖母が編んでくれたセーター
恩師の慈愛に満ちたまなざし
そして、母のか細い腕の中
淡い記憶を辿り、深く身を沈めて辺りを見回せば冷たい風が鳴く声が方々から聞こえてくる。
未来を包んでいたのは決して闇ではなかった。陽の当たる道をひたすら歩む。
地球は少しだけ傾きを変え、人の心には温かさを美徳とする気持ちが芽生える。
なだらかな山脈の稜線を視線でなぞるように陶製のコップの縁を右の人差し指の先で撫でる。
その一か所だけ欠けた部分で意図せず痛覚が働く。
鮮血が指の腹から滴り落ちて足元に赤い斑点が大小みっつ並んだ。
この赤と中和するような遥か山肌を埋め尽くす万葉の赤、紅、黄、金。
目で追えば数えきれると見まがうほどくっきりした光の粒、かがやき。
見えないものがまるでないと思い違いするほど澄み切った空。
時に逆らい静止する空間に抗って駆ければ空気の飛沫を肌で感じる。
この身体すべてを翼に変えて空高く飛び立つのだ。
私は見た、時を司る神が天空を翔る姿を。
夏が締め切った季節の扉。解き放つのは夏よ、あなた自身なのか。
知らぬ間にさざめく声の主は海の波から山の木々に変わった。
私は扉の向こうへ歩を進める。
埃の微粒子をまとった空気を洗い流すように冷たい雨が降り注ぐ。
浜辺で遊び疲れた子供達の体温を奪う長雨。
そして、路上を跳ねる水滴の色、形、輪郭、大きさ。
僅かな瞬間で失われ、そして瞬時につくられる新たなカタチ。それは普遍のもの。
幼き頃を過ぎ大人になってからというもの、人工物に見えていた世界。
水の雫しかり、そのすべての断片が芸術なのだ。
ちぎれてはつながる雲の編隊を眺め、きわめて繊細に成り立つこの世の秩序を時に思う。
今ここに存在する自分のはかなさ、頼りなさ。
ふるさとに便りをしたくなるのもこの季節。
瞳を閉じると黄金色の稲穂がさざめく。農夫達は一年で一番忙しそうだ。かがめた腰を起こしては額の汗をぬぐう。
見よ、彼らのあの誇らしげな表情を。
太陽の光をすべて失う瞬間まで陽の当たる場所を毎日追い求めた幼少期の記憶がふと瞼の裏に浮かぶ。
ざわ、ざわ、ざわわ
万物が優しく、寂しく互いの身体をこすり合わせる。きっとそれは秋の声。
誰もが欲する、ピタリと手を当てて感じる暖かきもの。
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