「色えんぴつとスケッチブック」

なみなみとあふれる記憶はかつて少女だった母に千年の眠りを届ける

つかれたのだろう
年老いたのだろう

あなたはあなたという存在をやりとげたのですね

あの日、

少女はあたらしい色えんぴつをぶんぼうぐ屋で見つけた
そして、きょうは特別ないちにちのはじまりだとはしゃいで
スケッチブックを開き、ていねいに母親の横顔をデッサンしはじめた

そうやって、今日を歩いてきた
そうやって、今まで歩いてきた
年老いた母は歩き方を思い出すだろうか
描き方を覚えているのだろうか
それとも「もう十分だ」と心の底から思っているのだろうか

いろんな瞬間があった

あの現場には100人を超えるひとびとが毎日汗を流している
その交差点には1万人を超えるひとびとが毎日行き交っている
この社会には1億人を超えるひとびとが毎日今日を生きている

そして今この部屋にはひとりの老婆が今日を生き永らえている

寝床から上半身を起こして橙色した夕刻の太陽のゆくえを見守る母

いろんな瞬間があるでしょう
その小さな四角い窓から見える風景にも

移ろう色、流れる音、降り注ぐ光、そして、そよぐ風、目には見えない空気の粒子

今を描き入れましょう、まっさらなスケッチブックに
色えんぴつが必要ならば私が枕元に毎日置いておきます

顔に表情のない母が一瞬うなずいたように見えた
そして、しわがれた指先がゆるゆると動きはじめる
秋枯れの大樹に秋の風が吹きつける、葉っぱは色を変え、やがて……
幕が降りるまで母は目の前の瞬間を切り取り続けるでしょう

私はスケッチブックを1ページめくり、窓の外を遠く眺めた

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