数学とY殿
言葉の正しい使い方に拘るだけでなく、それを他者にも強制する人を見かけると高校時代の数学教師を思い出す。
名前はY殿。初期の頃の話はかなり忘れてしまったが、クラフトワークのメンバーにいそうな面構えを今でも少し覚えている。
めちゃくちゃデフォルメしてしまうと
「そもそも◯◯という言葉は(解説)〜」
「よって、その場合は(指摘)〜」
「であるから、この場合には(長い解説)〜」などなどなどなど…
卒業してからも、成人してからも、社会のいろいろな場面で指摘・解説をしだす人を見かけることがあったが、私には、その人物が生き生きしているように見えることが多かった。(普段のその人物の様子をほとんど知らない場合でさえも)
Y殿の話に戻ると、私が知っている情報は陸上に力を入れて青年期を過ごし今でも世界陸上や駅伝好き、それと朝ドラの批評を欠かさないということだけ。
数学は公式に則って展開していくといえるでしょうか。それを当然としている人々からすれば、定義が崩れる危険性や不正確さというのはあってはならないという風に考えることもできる。
パターンを守ることに躍起になるのはそこが人生の主軸、生活の基盤になっているのだろうかと予想してみる。
そういえば、そのまた別の数学教師は、父親も数学教師らしく毎年1月に旧センター試験の問題を家族で解くのが恒例になっているのだと噂できいた。そのくらい、数学を身近に感じ、数学的思考が共通認識になっているのかしら?学んだ教科書や参考書が同じだったら、多くの人はほぼ同じ思考回路になりそうですものね。
心にゆとりを持って日々のストレスを減らしたい私は、今日もいろいろな人たちを勝手に予想、分類してみるのだった。
私にとって数学の公式は、ぼんやり眺める模様の如し。目の前にあっても秒で忘れるような、ほとんど曖昧な模様のようで馴染んだことがないし、教科書的思考も身についていない。理屈がわかったような気になれたのは確率ぐらいかもしれないが、それすら説明出来ないし、そんな私はこれからも誰にも勉強を教えることはないだろう。【おしまい】
※この画像はThe JamesesというアーティストのRat Peopleという楽曲のジャケットです
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