言葉よりも背景を見る ~才能の裏と奥義の開眼~
今日の記事は、
今後の記事をより良く理解して頂く為の、
補足として書いたものになります。
ただ、内容的にはかなりハードなので、
転換する覚悟がある方のみ、
読むことをお勧めします。
ご理解のある方に読んで頂ければと思います。
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言葉よりも背景。
大事なことはこれ。
そう思う。
多くの人は、
人の話を聞くが、
その人の背景を考えて、
人の話を聞く人は少ない。
背景とは、
その人の人生観や生き方のこと。
多くの人は、
自身に囚われている。
自身に囚われている自覚もないから厄介。
だから、
話の内容が核心に到達するほどに、
言葉が届かなくなる。
自身の都合の良い言葉に魅了され、
無自覚の内に、自身の価値観に、
都合の良いように理解を繋げ、
無意識の内に、囚われて行く。
自身の想いが先に来て、
相手の背景は、そうして見えなくなる。
何でこの人は、
そんなことを知っているんだろう?
と言う不思議を、考えられなくなる。
人の話を聞く上で何より大切なことは、
その内容よりも、背景で、
背景を知ることが、
物事を理解する、核心になる。
核心は感覚となり、
認められない感覚こそ、
事実の裏返しになる。
裏は、
上辺ではなく、真相。
真相とは、背景や人生観のこと。
相手のエネルギーが、その真実を写し出す。
何度も言うが、
何でこの人は、そんなことを知っているんだろう?
これこそ、最大のキーポイント。
話の内容よりも、
何故そんな話ができるのか?
どうやったら、その領域まで行けるのか?
そういうことが、
なりよりの理解。
事実より、非事実こそ、理解の真髄。
内容よりも、成り立ちこそが、理解の核。
だけど、
多くの人がそこを忘れる。
学問的に捉えることは、道のりの一つで、
知識は道のり、知恵は結果となり、
盲点を付くことが、答えとなる。
答えは、盲点であり、
盲点は、核心だからこそ、
受け入れることが、難しくなる。
そう考えると、
知識は、簡単(結果)、
知恵は、難関(成果)、
答えは、超難関(転換)となる。
だからこそ、
話の内容が核心に到達する程に、
そこを否定する様になる。
超難関とは、簡単には分からないこと。
簡単に分からないことは、理屈を越えているもの。
理屈を越えているものは、否定の定め。
でも、否定するからこそ、
そこには「何か」があり、
否定すらないものこそ、
そこには何もない。
否定は肯定の裏返しで、
否定の中にこそ、本当の「何か」がある。
否定は、受け入れ方を知ることが大切で、
それができると、物事の捉え方は一変する。
簡単なことの中には、何もなくて、
難しいことの中にこそ、「何か」がある。
本質は本来これだけ。
その「何か」があるからこそ、
否定は面白かったりもする。
何事も捉え方で、
分からないことが、恐怖に変わる?
分からないことに、絶望を感じる?
そんなに臆病でいたら、
分かることなんて、ないと思う。
自身を必要以上に守り過ぎることは、
愚か者しか生まないと思う。
本当の科学者や、哲学者は、
分からないからこそ、そういう事を何より大切にする。
裏を返せば、
無謀な者ほど、切れ者とも言える。
最早、何でも構わないのかもしれない。
囚われているものは、
そういう域にまでは、到達できない。
だから結局、何も変わらない。
そういう思いの裏を知ることだけが、
人を未知の領域に誘うもの。
自身が分かる範囲のことで、
行ける領域は、知れている。
知れているからこそ、今の自分がいる。
だから何事も、
囚われないことが大切。
囚われない為に何ができるのか?
それこそ、最大の学び。
形ない理解こそ、最大の恩恵。
形に囚われるものは、
それが、囚われていることだと、
認めることができない。
認識すらできていないのかも知れない。
形に囚われることは、ある種の才能で、
才能に囚われることは、
才能の裏に行けないことになる。
才能の裏にこそ、本当に大切な事実がある。
何事も裏を理解してこそのもので、
裏を知らない理解は、
浅いものにしかならない。
偉人達は常に、
この才能の裏を知っている。
理の裏を知っている。
人の疑問の裏を見抜いている。
だからこそ、
目の前の現実だけに、囚われることはない。
現実は、都合の良いことばかり求め、
非現実は、都合の悪いことを捉えるもの。
そういう教養のあり方が、
人が知らないことを知っている要因になる。
表ではなく、裏を重要視している。
見えるものではなく、見えないものを見ている。
聞こえるものではなく、聞こえない声を聞いている。
自身の内側の声に、耳を傾けている。
相手ではなく、自身が問題だと知っている。
謙虚になれることが、
真の答えに繋がると、理解している。
分別を付けられる者だけが、
物事を見極める目を養える。
分別こそ、最大の教養。
頭だけの理解は、
そこには到達できない。
分別よりも自身に囚われる傾向が強いから。
頭だけではなく、身体の感覚。
それこそ、分別の鍵。
分別は、繋がりではなく、
転換。
転換は、全体。
全体は、奥義。
自身に囚われない者だけが、
この領域まで到達できる。
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