深夜テンション来世考察会

 フォロワーさんがあげていらした来世考察があまりにも美味しかったので、私も調理欲が湧いてしまいました。文章をこねくり回して焼き上げることでいい感じになりたい!という深夜テンション文章です。

 では、早速ですが私の来世解釈です。
 私は、「来世なんて待ってらんない」という曲はアンソロジー、もしくはオムニバスの形式を取っていると思っています。複数組の若者二人の恋模様をかけらのように散りばめた、一夏の恋の様々な形を描いた曲が「来世なんて待ってらんない」なのです。

そう思う理由①:一人称がない
 そう、この曲、一人称がないんです……僕なのか、私なのか、それとも他の何かなのか、この曲の語り手が自己を何と呼ぶのかわからないのです。誰でもない語り手が、「君」という二人称に対して強い思いを発散させるところに、来世の面白さはあると言えるでしょう。
 誰でもないということは、誰でも在れるという言い換えができるでしょう。しかし、普段私たちがDIALOGUE+の言う「僕」に自分や8人を当てはめるような受け取り方とはまた種別が違ってきます。「僕」「私」という一人称の持つ多様さ、自由さは、来世の中にはありません。
 自分やDIALOGUE+自体ではないけれども、誰でもなくそして誰でも在れる誰か。この存在は、いったい誰なのでしょうか?それを考えたときに、作品内に個人を固定せず、なおかつ他の誰かとして存在させる読み方も拒む、アンソロジーという形が浮かび上がってくるように思います。

そう思う理由②:「すれ違って行く君はシーズン」
 二番のこの歌詞、デネスピを連想させますよね。デネスピの翻案説が最初は多かったのを思い出します。
 ただ、この曲がデネスピの二人のことだけを描いているのか?と聞かれるとそうは言い難いです。「僕」とはっきり一人称を描くデネスピに対して、上記のように来世には一人称がありません。デネスピの二人の要素が含まれた歌詞だと言えばおさまりは良いのではないでしょうか。
 複数組の恋模様の中の一つとして、デネスピの恋が挿入される。過去の作品を一つの物語として他の恋と平等に扱うところに、アンソロジーとしての要素は見られるように感じます。

そう思う理由③:口調のぶれ
 「世界をひっくり返すなんて嘘さ」
 「聴こえてくるの」
 この二つが同じ語り手から出てきた言葉とは、正直私には思い難いです。来世には、このような口調のぶれが複数個所見られます。
 これらは同じ二人組の恋愛を両者視点から見たという説明がよくなされていたように感じます。しかし、アンソロジー的な仕様だという説明も不可能ではありません。複数人が喋り、様々な視点から描かれる様々な恋を楽しんでいいのが「来世なんて待ってらんない」という作品なのだと言えないでしょうか。


 暴論にもほどがありますね。書いてて「なにこれ?」とずっと思っていました。しかし、私はこのアンソロジー的な読みを諦めたくはありません。夏の夜空に散りばめられた星が一つ一つ異なるように、太陽にかざしたサイダーの瓶が方角によって異なる輝き方をするように、夏の恋の輝きはきっと、たった一組の恋愛模様からは書きだせないように私は感じるのです。

 

 朝起きて読み返して恥ずかしさで消すかもしれない。

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