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気になる詩(好きな詩)        宮沢賢治 原体剣舞連

 詩人松下育男さんのノートに、「好きな詩を読んで、それがどんなふうに好きなのかを書いてみると、読みがさらに深くなる」とあった。

 さらに、「書いてみなければ、自分が何を感じているかを知ることができない。 考えているだけでは表面から進めないのは、詩作と全く同じだ。」とも書いていた。

 なるほど。そうかもしれない。

 そこで、最近出会った、好きな詩、というより「気になる詩」かもしれないが、宮沢賢治の有名な詩集『春と修羅』に収められている「原体剣舞連」(はらたいけんばいれん)を読んで、つらつら書いてみようと思う。

  
        
    原体剣舞連 (mental sketch modified)


    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
  こんや異装のげん月のした
  鶏の黒尾を頭巾にかざり
  片刃の太刀をひらめかす
  原体(はらたい)村の舞手(をどりこ)たちよ
  鴾(とき)いろのはるの樹液を
  アルペン農の辛酸に投げ
  生しののめの草いろの火を
  高原の風とひかりにさゝげ
  菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ
  気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
  青らみわたる顥気※(かうき)をふかみ 
  楢(なら)と椈(ぶな)とのうれひをあつめ
  蛇紋山地に篝(かがり)をかかげ
  ひのきの髪をうちゆすり
  まるめろの匂のそらに
  あたらしい星雲を燃せ
    dah-dah-sko-dah-dah
  肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ
  筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)び
  月月に日光と風とを焦慮し
  敬虔に年を累ねた師父(しふ)たちよ
  こんや銀河と森とのまつり
  准(じゅん)平原の天末線に
  さらにも強く鼓(つづみ)を鳴らし
  うす月の雲をどよませ
    Ho! Ho! Ho!
       むかし達谷(たつた)の悪路王※
       まつくらくらの二里の洞
       わたるは夢と黒夜神※
       首は刻まれ漬けられ
  アンドロメダもかゞりにゆすれ
       青い仮面(めん)このこけおどし
       太刀を浴びてはいつぷかぷ※
       夜風の底の蜘蛛をどり
       胃袋はいてぎつたぎた
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
  さらにただしく刃(やいば)を合はせ
  霹靂(へきれき)の青火をくだし
  四方の夜の鬼神をまねき
  樹液もふるふこの夜さひとよ
  赤ひたたれを地にひるがへし
  雹雲(ひよううん)と風とをまつれ
    dah-dah-dah-dahh
  夜風とどろきひのきはみだれ
  月は射そそぐ銀の矢並
  打つも果てるも火花のいのち
  太刀の軋(きし)りの消えぬひま
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
  太刀は稲妻萱穂(いなづまかやぼ)のさやぎ
  獅子の星座に散る火の雨の
  消えてあとない天のがはら
  打つも果てるもひとつのいのち
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

※顥気・灝は白く光る意。転じて天空の広々として明るいさま。
※達谷の悪路王・平泉の奥の達谷窟(たっこくいわや)を拠点にしていたと 伝えられる蝦夷の首領の一人。
※黒夜神・中夜(午後十時)から丑の刻(午前二時)を司る災禍をもたらす神。
※いつぷかぷ・溺死の方言。
             (『宮沢賢治詩集』角川文庫、語注から引用)


 この詩に久しぶりに出会ったのは、ついさいきん読んでいた本、前田速夫著『北の白山信仰』(河出書房新社、2018年)の中でのこと。
 こんな記述があった。

『それにしても、エミシ討伐、北方守護という中央の側の事情と、亡ぼされたエミシの霊を祀り、慰撫するという身勝手な理屈でもたらされた白山の神を受け入れ、祈りを捧げるに至ったエミシの側の心のうちは、どのようなものであったろうか。~中略~ 
 敗北者であるエミシが勝利者たる敵将を崇め、顕彰するのとは引き換えに、敗北者を生き延びさせ、大活躍させるのでなくては、内向する精神のバランスの取りようがないではないか。 ~中略~ こうした傾向は、みちのくを代表する文学者や芸術家の作品にも顕著である。』(138頁)

 そこで著者、前田速夫が挙げている文学者、芸術家として、

・「皮肉的なまでに演戯的な太宰治
・「故郷の山河と向かい合い悔恨と悲傷からの再生を果たす斎藤茂吉
・「土俗の怨念と禁忌意識の裂け目でもがく寺山修司
・「東北弁を駆使して笑いと諷刺のユートピア『吉里吉里人』井上ひさし
・「豊満なエロスの発散が哀愁とないまざった版画家棟方志功」
 
 と、なかなか豪華なラインナップになる。
 (好きで読み込んだ作家ばかりだ)
 そして最後に「なかでも一番ぴったりくる」として、宮沢賢治「原体剣舞連」を挙げ、全文を引用し、紹介していた。

 
 わたしは、久しぶりにこの詩を読んで、なにかものすごく引き込まれるものがあった。賢治の他の詩と同様の魅力と、それらにはない、この詩独特の魅力があるように思われる。
 
 原体剣舞連には、「達谷の悪路王」が出て来る。
 これは8世紀末から9世紀初頭に起きたエミシの反乱の首領、阿弖流為(アテルイ)のことで、時の征夷大将軍、坂上田村麻呂によって討ち取られ、都で斬首されている。

 賢治が歌っているのは、討たれたエミシの悪路王=アテルイと、討つ側の征夷大将軍坂上田村麻呂と、討つ側と討たれる側の双方からの歌である。
 
 賢治は、若い頃、地質調査に出かけた田原村原体(現・奥州市江刺田原)で、民俗芸能・原体剣舞を見た。
 原体剣舞は、踊り手に「信坊子」「信者」「亡者」の役の全てを子どもが演じ、その純真無垢な清らかさにより先祖の霊を鎮めようと伝えられてきた念仏踊り(鬼剣舞)の一種である。

 サブタイトルに「mental sketch modified」(修正された心象風景)とあるのは、だいぶあとになって、この詩が書かれたからだ。
 賢治は、何度も何度も解釈を繰り返し、上書きされた上で発表された詩だからこそ、modify(修正)された心の風景と書き付けた。
 それほど、心の奥の奥に、いつも横たわっている意識(無意識)なんだと思う。

 長い前置きになってしまった。
 詩を細かく見てみよう。
 まず冒頭の、

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 声に出して読むとき、これをどう読めば良いのか。悩む。
 悩むが、こんな心地よいオノマトペは、他に見たことがない。
 だだだだだ、すこ、だだ。
 と平仮名にすると、どうにも落ち着かない。
 ここは、純粋に音の表現としてのアルファベットで大正解だと思う。
 
 かつて、賢治の目の前で踊った剣舞連の子どもたちを再現するのでなく、賢治の心の奥の風景に、いきなり歴史上の人々に仮装した躍り手たちが、現れたみたいだ。
 
 それにしても、この詩は、音楽としてもリズムとしても、実に心地よい言葉=音の並びである。
 賢治の亡き後、何人もの表現者が、この詩を歌ったり、演じたり、踊ったりしたくなった理由が、多くの読者にも共有できるだろう。

 圧巻は、

  こんや銀河と森とのまつり
  准(じゅん)平原の天末線に
  さらにも強く鼓(つづみ)を鳴らし
  うす月の雲をどよませ

 このあたりから風景が宇宙大に広がっていき、

   Ho! Ho! Ho!
       むかし達谷(たつた)の悪路王
       まつくらくらの二里の洞
       わたるは夢と黒夜神
       首は刻まれ漬けられ

 と、「Ho! Ho! Ho!」で、転調してから。
 そこから、一気に最後の、

  打つも果てるもひとつのいのち

 まで駆け抜けるのだ。
 三度の
 
   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 を挟んで。
 すごい詩である。意味はときおり通りにくくなることもあるのだが、読む勢いが止まらないので、気にならない。
 二度出て来る同じような表現、

 打つも果てるも火花のいのち

 打つも果てるもひとつのいのち

 この両義性こそ、賢治の主たるモチーフだと思う。
 討つ側も討たれる側もひとつのいのち。
 
 もう一度、『北の白山信仰』の著者、前田速夫の文章を引用してみる。


『実際に原体村の剣舞連を観て作った詩なのに、表題に鬼の文字はなく、本文中にもわずかに一か所、鬼神としか出て来ない。にもかかわらず、朝廷軍によって亡ぼされた無数の鬼たち、つまりエミシの亡霊が乱舞、躍動しているのごとくなのは、賢治が荒ぶる神としての鬼の異形性、両義性、多義性を本能的につかみとり、うち返して、それらを風や光と対峙させるなかで、真に霊なる存在へと昇華しえたからであろう』(141頁)


 人は、何でも二項対立を軸にしてものを考えてしまう。
 男と女。人間と自然。内と外。主体と客体。
 わたしなら、障害者と健常者。現代詩と非現代詩。
 
 賢治の詩は、音楽と踊りと言葉がミクスチャーして、宇宙規模で躍動しているうちに、いつのまにか「ひとつのいのち」に還元していく構造になっている。
 それがすごい。
 うらやましい。
 
 こんな詩を、書けるなら、書いてみたいものである。





 

 

 



 
 


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