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詩と詩人 友川かずき 谷川俊太郎 石垣りん 小池昌代 藤井貞和
詩について考えたことがなかったといえば、嘘になる。
だが、詩は特別なものだった。
ある作家から直接聞いた話だ。
「小説家、評論家っていうだろう。画家、建築家、芸術家なんてのもある。でも、詩人だけは、詩家とはいわない。詩の人、詩人だ。職業じゃないんだよ。」
なるほどと思った。
ひょんなことがきっかけで、齢三十半ばで日本文学研究にのめりこみ、大学に通うようになった。学部、修士と進んだが、修士論文提出のみを残したまま、大学院を中退してしまった。
いい歳をして、研究者になれるはずもない現実と、ADHD特性の故か資料の整理が苦手(苦痛)という性格と、凝り固まった組織人間にすぐ喧嘩を売る性分と、酒癖と女癖の悪さも相まって、お利口さん揃いの日本文学研究なんざ、もとより自分の場所ではなかったのだ。
なにをトチ狂っていたのだろうか。
作家の話の続きはこうだ。
「詩と詩人は、特別な存在なんだよ。俺は、もともと画家で、小説家にもなったが、詩人には絶対になれない。それは、俺にも、わかるんだよ」
グラス片手に語る、老齢にさしかかった作家は、少し寂しそうにみえた。
詩は、詩人は、そういう存在なんだと、爾来ずっと心の奥に刻んだまま、馬齢を重ね、とうとう還暦に近い年齢になってしまった。
文学研究を諦め大学院を去り、在野で、小説や評論を書いてきたが、評価されることはなかった。
食うための職業は、なんでもよかった。
もの書きになれれば良かったのだから。
それでも、ボランティアセンターの職員、NPO職員、福祉サービス業と、転々としながら職を選んできたのは、技能を持たない以上、会社に入る手段は営業職くらいで、売りたくもない商品を売る仕事だけは、したくなかったからだ。
最後の勤め先は、株式会社が運営する発達障がい児の通所施設、いわゆる放課後等デイサービスだった。
これが、人生の転機になるだろうとは、入社当初、思いもしなかった。
今から思えば、典型的なブルシット会社だった。トップダウンの効率的な組織運営を金科玉条として突き進み、短期間で店舗(教室)を激増させ、あっという間に業界最大手まで上りつめていた会社だった。
業界紙で、東大卒、アメリカ仕込みのMBAがウリの社長が、得意満面(写真つきインタビュー記事だった)で言い放った言葉は、今でも頭にこびりついている。
「わたしは、今のような時代は、障害者であっても、社会の役に立つことが出来る。そう思っています」
相模原事件の記憶が、まだ生々しく残っている頃の話だ。
この言葉が、どのような意味を帯びるのか、考えたことがあるのだろうか。
業界で、もっとも多くの障がい児を、その親を相手にして、教室を経営している企業のトップの言葉なのに。
同僚の社員の反応が、ほとんどなかったことにも、愕然とした。
悶々としながら、毎日、隅田川沿いをチャリンコ出勤した。
友川かずきの「トドを殺すな」を聴きながら。
ペダルをこぐ足に、ぐいと何度も、力を込めた。
北海道の空と海の蒼
かき分けるように生きてゆく動物達
役に立てば善だってさ
役に立たなきゃ悪だってさ
誰が断を下したんだよ
トドを殺すな トドを殺すな
俺達みんなトドだぜ
おい撃つなよ おい撃つなよ
おいおい 俺を撃つなよ
暇な主婦たちは 今日は何頭殺したかと
注意深くテレビを齧ってた
男は自分の身長より高く顔を上げない
子供たちの顔はコンクリート色になった
夢は夢のまた夢夢夢
トドを殺すな トドを殺すな
俺達みんなトドだぜ
おい撃つなよ おい撃つなよ
そこの人!
俺を撃つなよ
(『肉声』徳間音楽工業)
余談だが、この歌は、TVドラマ『金八先生』の中で使われている。
ツッパリ女子中学生役の三原じゅん子が、ライブハウスで、友川本人が歌う「トドを殺すな」を、熱心に聴いているシーンがそれだ。
家出を繰り返す不良少女がトドで、学校と教師がトドを撃つ「世間」という構図なのだろうか。
三原も武田鉄矢も、トドの側から離れて遠く行ってしまった観があるが、友川だけは独り、トドのまま歌い、書き続けている。
閑話休題。
相模原事件が起きたとき、いったい何がこの事件を引き起こしたのか、必死で言葉を探した。関連書籍を読み漁った。自分で小説も書いた。
だが、友川の歌詞より響く言葉は、見つけられなかった。
むしろ、裁判所で語られた植松被告本人の言葉が、その背景に多くの世間の本音が隠されているようで、恐ろしかった。
弁 平成28年、他にはどんなことがありましたか。
被 ドナルド・トランプが大統領選に出ていました。
弁 トランプさんのことをどう思いましたか。
被 とても立派な人だなと思います。
勇気を持って真実を話しているからです。
弁 トランプさんの動き、意見が影響を与えたんですか。
被 真実を述べているので、
これからは真実を述べてもいいんだと思いました。
弁 あなたの真実とはなんですか?
被 重度障害者を殺害した方がいいということです。
(『パンドラの箱は閉じられたのか』月刊『創』編集部編、創出版)
この会社にはいられない。
役に立つ、立たないを、障がい者とその親に言い放つ。
若いイケメン社長の自信に満ちた言葉に、植松被告の場合と同じような世間の本音が垣間見えた。
自分の書くものを、その世間は認めてくれない。それでも、独り文学と関わりながら、詩と詩人だけは神格化して遠ざけてきた。だからだろうか。
このような情況に耐えうる強度と深度を持った言葉が、見つけられなかった。
ただひとり、友川かずきだけが、居た。
地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風を聞く
どうってこたあねえよ
朝鮮野郎の血を吸って咲く菊の花さ
かっぱらってきた鉄
器を溶かして鍛え上げたニッポン刀さ
友川は、『囚われの歌』という曲の冒頭に、このような語りを入れている
冒頭の短歌は、言わずと知れた啄木の作だ。
トドの歌もそうだが、友川の主体は、縦横無尽に入れ代わる。
つながれている人は泣いていない泣くよりも泣くよりも悲しいのだ
朝日も夕陽も何もない
あるのは静寂と闇と怒り
何クソ! 肉体と魂
何クソ! 肉体と魂
神経がくたくたに擦りへってゆく
絶望の刃が今振り下ろされる
時は一九七四年
誰ももはや知らぬふりは出来ない
何クソ! 肉体と魂
何クソ! 肉体と魂
春は来たに風が来ない
花の咲く音が今きこえた
権力は思想に恐怖を抱き
理想は肉親に弱気になる
何クソ! 肉体と魂
何クソ! 肉体と魂
(『桜の国の散る中を』キングレコード)
囚われているのは、自分も同じだ。
国家に。会社組織に。
科学技術文明と資本主義に。
何クソ、肉体と魂。叫びたい気持ちになる。
独立しかない。もの書きになれないなら、トドの側に立って、自分で教室を作ろう。障がい児と、その親たちの側に居よう。撃たれてたまるか。
2019年9月に退社。
同年11月に、NPO法人を立ち上げる。
2020年4月。
コロナ禍の始まりとほぼ同時に、障がい児通所施設、放課後等デイサービス教室を、東京の下町に開室した。
それは突然、やってきた。
2021年秋のことだ。
「言葉が鍛えられる講座」というタイトルに魅かれ、参加することにした。てっきりエッセイや小説を書くものと思っていたが、あにはからんや、詩の実作だった。
しかも、講師は、
「詩はね、自分で詩人と言ってしまえば、それはもう、詩人なんだよ」
と、のたまう。
詩と詩人。
遠ざけてきたものが、一気に身近になり、こそばゆい気持ちだった。
それでも詩を書いてみる。ほとんど、生まれて初めての経験だ。
最初はまったく書けなかったが、だんだんと面白くなってくるから不思議だ。
どうせ乗れないと、ハナから諦めていた一輪車に、フラフラながらも、かろうじて乗れている感じと言えばいいか。
さいきん、谷川俊太郎が、往復書簡を出版した相手ブレイディみかこに、こんなことを書いていた。
ブレイディさんの文章を読んでいると、私の頭には「現場」という言葉
自然に浮かんできます。書いている現場はもしかすると私と同じようにラップトップがある所かもしれませんが、文章が生まれる現場、あるいは文章を支える現場が、この世のどこかでブレイディさんが生きてきた年月が言葉の上だけでなく、具体的事実としてちゃんと存在している。
若い頃からもっぱら言葉を手立てに世界を見聞きし、知ってきた私には、現場というものが言葉にしかないような気がするのです。
(谷川俊太郎、ブレイディみかこ『その世とこの世』岩波書店)
ここでいう「現場」とは何だろう。
ブレイディでいえば、在住28年間ずっと、ダブリン、ブライトンなどの周辺都市で、失業者、低所得者層の多いダウンタウンに住み、トラックの運転手と所帯を持ち、子どもを育て、保育士として働きながら『子どもたちの階級闘争』や『女たちのテロル』を書き続けてきた、その場所のことだ。
谷川の言葉をさらに引用すれば、「人体の解剖を出発点とする養老孟子さんや、ゴリラとともに生きる山極壽一さん、ひいては今読んでいる、かの漱石の『思い出す事など』の文章に存在する抽象を許さないリアルな現場」(同書)ということになる。
ブレイディみかこは詩人ではないので、現場型の詩人と言えば、石垣りんがあげられるだろうか。
よく知られている詩作品に、「私の前にある鍋と お釜と燃える火と」や「家」がある。
石垣りんの詩は、昭和の女性の「現場」を、家庭と職場の双方から、「対象とあくまでも運命をともにしようとする静かな共生感」(清岡卓行『抒情の前線』)、それが常に土台にあった上での批評性を、存分に含ませて書かれている。
それがどれほど過酷で、眼を覆いたくなるような現実であっても、作品の底には、「人間的な暖かさ」(清岡)がある。
その意味では、時代も場所も異なるが、英国ダウンタウン在住のブレイディみかこの生々しい「現場」と、それを土台に紡がれる言葉と、同じだ。
しかし、石垣りんには、次のような詩もある。
夜 毎
深いネムリとは
どのくらいの深さをいうのか。
仮りに
心だとか、
ネムリだとか、
たましい、といった、
未発見の
おぼろの物質が
夜をこめて沁みとおってゆく、
または落ちてゆく、
岩盤のスキマのような所。
砂地のような層。
それとも
空に似た器の中か、
とにかくまるみを帯びた
地球のような
雫のような
物の間をくぐりぬけて
隣の人に語ろうにも声がとどかぬ
もどかしい場所まで
一個の物質となって落ちてゆく。
おちてゆく
その
そこの
そこのところへ。
(詩集『表札など』思潮社他)
このことばの透明さは何だろう。
海底が見えるほど透き通った言葉だが、過酷な現実を、「リアルな現場」を離れた抽象性、というふうには読めない。これはこれで、石垣りんの「言葉の現場」から生まれたのだ。
詩人小池昌代が、ここでいう「言葉の現場」を、「遠いふるさと」として、散文詩を書いている。長い詩なので、一部抜粋して引用する。
それにしても、遠くというのはどこの場所なのだろう。その遥かな響き
「わたしは、この子のいう、その、遠いところを、ふるさととしてもっている者です。そこで分厚い綿の布団をかぶって、毎日、眠る。羽毛布団では、ありませんよ。それでもああ、若いころは、ずいぶん深く、眠ったような気がします。深いネムリとは、どのくらいの深さをいうのか。老いていくごとに、ネムリはだんだん浅くなっていく。最初はさびしい感じがしました。浅くしか埋めてもらえなかった死体みたいにね。」
~中略~
そんな、煙のような話を聞いて、わたしは不安になり、あなたはどこからおいでになりましたか、と確かなところを聞きたいと思いました。けれど、思っただけで、それは言葉になりませんでした。子供を産んだとき、わたしは子供にも、「あなたは、どこからおいでになりましたか」とたずねたくなりましたが、この貧しく謙虚で、どこかしら野暮ったく、ちょっと未成熟な天然ぶりっこを思わせる老女もまた、その名づけられない遠いところを、ふるさととして、もっているのだといいます。
(「橋の上で 石垣りんのために」『現代詩手帖特集版 石垣りん』)
2005年に亡くなった石垣りんへのオマージュとして書かれた散文詩で、二人の詩人が、隅田川にかかる永代橋の真ん中で出会い(水と橋の上というのがいかにも小池昌代だ)、会話するという構成になっている。
太ゴシックの部分は、小池が引用した石垣りんの詩の一行。
(「夜 毎」と「新年の食卓」)
それにしても、子供を産んだとき、その子供に向かって「あなたはどこからおいでになりましたか」とは、なかなか言えないものだ。新年の食卓で顔を合わせた家族に対しても、もちろん言えない。当たり前だ。ついにボケたかと言われるのがオチ。
だが、親しい者、自分の分身といえるくらい近しいもの。
それは、本当は、「名づけられない遠いふるさと」から、呼び覚まされて来たものではないか。どんなに慣れ親しんでいても。よく、深く考えると、そうなのだ。
詩のことばも。
同じことばであっても、遠いふるさとを経由し、再びこの世に戻ってきたことばは、「言葉の現場」を潜り抜けた、力強さや「人間的な暖かさ」、それ故の身体性を帯びてくる。
詩と詩人を、遠ざけてきた自分に、だんだんと、詩に対する「とっかかり」が出来てきた。
詩のない生活から、
詩のある生活へ。
言葉を現場として、長く詩を書き続けてきた谷川俊太郎には、「ことばのふるさと」を潜り抜けてきたような詩は、ふんだんにあるようだ。
ここでは、藤井貞和の詩を、最後に引用してみたい。
雪、nobody
さて、ここで視点を変えて、哲学の、
いわゆる「存在」論における、
「存在」と対立する「無」という、
ことばをめぐって考えてみよう。
始めに例をあげよう。アメリカにいた、
友人の話であるが、アメリカ在住中、
アメリカの小学校に通わせていた日本人の子が、
学校から帰って、友だちを探しに、
出かけて行った。しばらくして、友だちが、
見つからなかったらしく帰ってきて、
母親に「nobodyがいたよ」と、
報告した、というのである。
ここまで読んで、眼を挙げたとき、きみの乗る池袋線は、
練馬を過ぎ、富士見台を過ぎ、
降る雪の中、難渋していた。
この大雪になろうとしている東京が見え、
しばらくきみは「nobody」を想った。
白い雪がつくる広場、
東京はいま、すべてが白い広場になろうとしていた。
きみは出てゆく、友だちを探しに。
雪投げをしよう、ゆきだるまをつくろうよ。
でも、この広場でnobodyに出会うのだとしたら、
帰って来ることができるかい。
正確に君の家へ、
たどりつくことができるかい。
しかし、白い雪を見ていると、
帰らなくてもいいような気もまたして、
Nobodyに出会うことがあったら、
どこへ帰ろうか。
(深く考える必要のないことだろうか。)
(小池昌代編『通勤電車で読む詩集』より)
ブレイディみかこや友川かずき。
3・11震災直後の福島から、「詩の礫」を投げ続けた和合亮一。
この文章の冒頭で「詩と詩人は特別なんだよ」と言った作家は、現場というとっかかりがある詩と詩人(ブレイディは詩人ではないが)よりむしろ、純粋な「言葉の現場」の詩人の詩を眼の当りにして、愕然としてしまったのだろう。
そして、「詩と詩人は特別なんだよ」と、神格化してしまった。
中也を前におのれの詩を打ち捨て、評論家に転じた小林秀雄のように。
その作家の影響を受け、詩と詩人を遠ざけてきた。
今でも、引用した、石垣りんや小池昌代、藤井貞和の詩のような、透明なことばの連なりを読むと、ため息しか出ない。
小林秀雄のように、おのれの詩を投げ出したくなる。
それでも、「詩のない生活」より、「詩のある生活」がよい、と今は思う。
ハイタワーマンションが乱立しコンクリートで固めた川が隠される超現代都市より、人々の生活の匂いが漂い、緑と土が両岸に豊かな川が、ゆったりと流れる街の方がよい、と喩えてみればいいか。