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長崎ぶらぶら解説①大浦天主堂

こんにちは、宮田です。

私は現在、江戸時代の長崎の漫画をかいています。
作っているものはフィクションなのですが、知らないものはアレンジすることもできないので、きちんと学びたくて長崎のことを勉強しています。

勉強を始めて半年以上が経過したのですが、学びながら思うことは、学べば学ぶほど、次から次にどんどんわからないことが増えていく…どうしよう…
ということで、
あれもこれもわからん…私は何も知らない……とひとつ覚えるたびにしょんぼり打ちひしがれてしまいます。

ので、少しでも理解を深めるために、私が現地を訪れたり本を読むなどして学んだことを時々ここにアウトプットさせてください。

名付けて「長崎ぶらぶら解説」です。
宮田が勉強したことをざっくりお話する初心者による解説です。よければお付き合いください。

間違えていたら親切な詳しい人がきっと指摘してくれるはず!と思って恐れずに書かせて頂きます。
失礼があったらおしえてください。(すみません)よろしくお願いいたします。


はじめに

長崎ぶらぶら解説
第1回は大浦天主堂とキリシタン博物館についてです。

「大浦天主堂」この建物を見たことがある人は多いのではないでしょうか。
かなり有名な観光地というイメージですが、ここはどういう場所なんでしょうか?

国宝 大浦天主堂(2023/3/21撮影)


天主堂についてお話する前に、歴史のお話です。
江戸時代、日本ではキリスト教を信仰することが禁止されていました。


潜伏キリシタン

江戸時代が始まる少し前、スペインからやってきた船の乗組員がうっかり日本人に話してしまいます。
「スペインはキリスト教を利用して、布教先の国を植民地にしてきた。だから大国になれたのだ。」
これに怒ったのが豊臣秀吉さん。

キリシタン弾圧の命令を出し、
1597年に長崎の西坂という場所でキリシタン26名を処刑しました。
26人は外国から来た(主にスペイン系修道会の)宣教師、日本人、12才、13才の少年も含まれました。
彼らの殉教は当時海外にも伝わりました。

その後もいろいろあって(ここでは割愛)江戸時代、日本ではキリスト教が禁止されました。

日本は鎖国の道を進み、キリシタンは悪とされ、キリシタンや宣教師を密告した者には賞金が出たりもしていました。
信仰を捨てるか命を捨てるかどちらか選ぶしかない状況で、改宗せずに拷問で命を落とした人、仏教徒に改宗し生き長らえた人、たくさんの人生がありました。

幕府は日本国民全員をひとりひとり、どこかしらの寺や神社に所属させました。
そして「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」という、今でいう戸籍のような名簿を作り、毎年お正月に一人一人踏み絵をさせて、キリシタンではないこと、確かに寺に所属していること、を確認していたりしました。
こういった幕府のさまざまな施策によって、日本におけるキリシタンは絶滅したと思われていました。

けれどそんな江戸時代260年を乗り越え、一族や村、集落単位でひっそりとキリシタンであり続けた人々がいました。
彼らのことを潜伏キリシタンと呼びます。


大浦天主堂

さて、大浦天主堂です。
こちらは開国後1864年に建てられた教会。現存する日本最古のキリスト教建築物です。
大浦天主堂と呼ばれますが、正式名称は「日本二十六聖殉教者聖堂」といいます。

豊臣秀吉の時代に処刑された26人のことはヨーロッパにも伝わっていました。
彼らは1862年にローマ教皇によって聖人とされ、日本二十六聖人と呼ばれるようになります。
ここは長崎を訪れたフランス人によって建てられ、二十六聖人に捧げられた教会です。
いわば長崎に渡ってきたキリスト教徒の外国人によって、外国人のために作られた教会でした。

ある日、ここでお祈りを捧げていたプチジャン神父のもとにこっそりと現地の日本人があらわれて、自分たちはキリシタンであると告白しました。彼らは潜伏キリシタンでした。
260年の時を越えて、日本人の間で信仰が受け継がれていたことが明かされたのです。驚異的なことです。
このことは「信徒発見」と呼ばれました。

開国したばかりの当時はまだ日本人のキリシタン禁教は続いており、本格的にキリシタン信仰が解禁されるまでは、もう少し時間を要しました。

潜伏キリシタンの方々は、
先祖や親から受け継いだキリスト教への信仰をひた隠し守り続け、役人の前では生きるために踏み絵をしてイエス様やマリア様の御姿を踏みつけるしかなかったのです。

その心のせつなさの幾許かも、本物のイエス様やマリア様の像を拝めた時の喜びも、私には想像することもできません。
大浦天主堂という場所は、日本人とキリスト教との再会の舞台となりました。
人類の歴史のなかでとても大切な場所なのです。


観光地としての大浦天主堂

大浦天主堂は、我国の洋風建築輸入の初頭を飾る代表的な建築物です。
1933(昭和8年)年1月23日、文部省により国宝に指定されました。原爆による損傷の修復が完了して後、1953年3月31日、文化財保護委員会によって、国宝に再指定されています。
大浦天主堂 ホームページより

そんな大浦天主堂は現在「有名な観光地」となり、ありがたく拝観することができます。

拝観料は大人1000円。
館内で放送が流れていますので、まず座って静かにそれを聴くといいかもしれません。

建築自体の美しさにも目を奪われますし、
信徒発見の舞台になった聖母子像、ザビエルさんの像もあります。
私は壁にそって飾られている絵に惹かれて、しばらくじっと眺めてしまいました。
お祈りの場所ですので、写真撮影したり騒いだりするのは控えましょう。


キリシタン博物館

大浦天主堂のすぐ脇には博物館があり、大浦天主堂の拝観料でそのまま見学できます。

キリスト教の伝来から弾圧迫害、信徒発見、どのように日本でキリスト教が「復活」したのか
「かくれキリシタン信仰」とは何か、どうなったのか
と、日本におけるキリシタンの歴史を学ぶことができます。

この博物館は順路がふたつの建物に分かれています。
まず坂を登って上の建物に行きましょう。
旧羅典神学校と旧長崎大司教館、どちらの建物も歴史あるもので、時代を感じられます。
立っているだけでも背筋が伸びるようです。

大浦天主堂 パンフレットより


入館してすぐ、日本二十六聖人殉教図の複製をじっくりみることができます。
殉教を描く痛々しい場面でありながら、美しく生き生きとしていて、絵に惹き込まれます。
この中に確かに命が存在していて、人々の声が聞こえてくるようです。

同じ作者による「長崎の元和の大殉教」の絵画も、この博物館でみることができます。

館内にはほかにも貴重な史料がたくさん展示されています。

私が訪れた日は雨が降っていたのもあったからか、しっとりと静かに拝観することができました。


これで大浦天主堂とキリシタン博物館のお話は終わります。
みなさんも観光などで長崎を訪れた際はぜひ行かれてみてくださいね。


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余談

大浦天主堂のすぐ近くにはグラバー園があり、食べ物屋さんがあり、お土産屋さんがあり……この一帯はとっても観光地で、歩いているだけでも楽しいですね。

天主堂のすぐ近くにカステラ屋さんの和泉屋さんがありますが、私はこちらの「長崎しよこらあと」が好きです。
カステラをチョコレートでコーティングしていて
甘いもんには甘いもんをぶつけんだよ!と言わんばかりのカロリー特化菓子。美味しい。
長崎に行った時はお土産としてつい買ってしまいます。(まわし者ではありません)


それでは、本日はここまで〜

私は歴史ある絵画や本が好きなので、絵や本をみると楽しくなってしまい、どうしても解説(というか感想)が好みに偏ってしまうかもしれませんが……いかがだったでしょうか?


大浦天主堂のあとは、長崎駅近くの「日本二十六聖人記念館」にも行かれるとさらに多くのことを学べると思います。
こちらは二十六聖人が処刑された場所に立つ記念館です。
当時の史料やキリスト教の宝物をたくさん目にすることができます。
私もとても好きな場所で、近いうちにまたお邪魔したいです。

長々とお付き合い頂き、ありがとうございました!