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麻生田町大橋遺跡 土偶A 60:菊花紋に隠された木瓜紋

津島市の[神明社・八幡社]合殿からやってきた東西に走っている県道115〜114号線を辿って西に向かい、同じ津島市内の北西4.2km以内に位置する明天町 金刀比羅宮(ことひらぐう)に向かいました。

●麻生田大橋遺跡土偶A
1MAPレイラインAG(明天町 金刀比羅宮)
レイラインAG(明天町 金刀比羅宮)
レイラインAG(明天町 金刀比羅宮)

県道114号線から路地を北上すると、南北2本の緑道に挟まれた金刀比羅宮があった。
社地には玉垣が巡らされ、社頭は東を向いていた。

明天町 金刀比羅宮社頭

路地の向かい側にも東に緑道が延びていた痕跡が感じられる。
地図でチェックすると、社頭の向かい側の区画には美容学校のビルが存在するのだが、そのビルの東側に面して曹洞宗寺院の大珠山 龍渕寺(りゅうえんじ)が存在し、その境内には豊川荼枳尼天(だきにてん)が祀られていることが判った。
レイラインAGはもちろん豊川と津島を結んでいるが、その両地に豊川稲荷(荼枳尼天)が祀られているのだ。
おそらく、美容学校のキャンパスは龍渕寺の境内の一部が払い下げられ、習合していた金刀比羅宮の敷地部分が分断されたものと推測できる。
金刀比羅宮の総本宮は香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮だが、明治初年の神仏分離以前は金毘羅(こんぴら)大権現と称し、真言宗寺院象頭山(ぞうずさん)松尾寺と習合していたことから、龍渕寺の前身も真言宗寺院であった可能性が推測できる。
龍渕寺はかなり広い境内を持っていたようだ。

それはともかく、明天町 金刀比羅宮の社地の北側の緑地に愛車を駐めて、路地に面している金刀比羅宮の社頭に立ちました。
金刀比羅宮の社地は4段の石段上に広がっており、石段上には石造伊勢鳥居が設置され、右脇に「金刀比羅宮」の社号標。
さらに社地の右端には「天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)」の社号標、左端には「秋葉神社」の社号標も建てられている。
石段上の鳥居の周囲は石畳を張った踊り場になっており、鳥居の先は細かな砂利を敷き詰めた表参道が20m近く奥に延び、その突き当たりには背の高い石垣の上に3社を祀った覆屋が立ち上がっていた。

石段を上がり、鳥居をくぐると、参道の両側には3対の常夜灯と2対の石灯篭が並んでいる。

明天町 金刀比羅宮 表参道/覆屋

表参道を進むと、石垣の麓にも石畳が張られており、そこから3社の流造の社に向かって3本の石段が立ち上がり、各社に神門も設けられている。

明天町 金刀比羅宮 覆い屋

石垣は2m以上の高さがあり、洪水対策になっているものと推測できる。
明天町 金刀比羅宮の西南西4.2kmあまりの場所に天王川が残っているが、この天王川は、かつて佐屋川の支流であった。
その佐屋川は元は木曽川であったのが、洪水によって木曽川の流路が現在の西に移り、残された派川だった。
その後、佐屋川は廃川にされることが決まっていたのだが、廃川になる直前に、新たな木曽川の洪水で水が流れ込み、津島周辺は洪水被害を受けている。
明治期になって佐屋川の分派口は締切られ、現在は木曽川用水の海部幹線水路の一部になっている。

三社の覆屋は吹きっぱなしの銅版葺切妻造の建物で、屋内には中央に金刀比羅宮、向かって右に天照皇大神宮、左に秋葉神社の3社が祀られているが、いずれも銅版葺流造の旧い社(やしろ)だ。       

●明天町 金刀比羅宮

中央の金刀比羅宮を観てみると、ジュラルミンと思われる素材で腰の高さの観音開きの神門が設けられ、その両扉に丸に金字紋が装飾されている。

明天町 金刀比羅宮

金刀比羅宮で目に着くのは社前の狛犬だ。
新しくて小型のものだが、表現がモダンで、すばらしい出来の狛犬だ。
小型になっているぶん、表現が省略されており、2次元の絵画で言えばスケッチのような彫像だ。
こんな発想で製作された狛犬には初めて出会った。
昨今増えている、韓国製のケバくて安っぽい狛犬とは対極にある狛犬だ。
このタイプの狛犬は、ここ3社の中で金刀比羅宮だけだった。
石段下で参拝したが、この神社全体の由緒書などの情報は現場にもネット上にも見当たらない。
金刀比羅宮総本宮に倣えば祭神は大物主神ということになる。
大物主神に関わる丹塗矢伝承(にぬりやでんしょう)は以下の記事で紹介したばかりだが、

大物主神というと、大国主神との関係で、不可解なところがある。
『古事記』では大国主神がともに国造りを行っていた少名毘古那神(スクナヒコナ)が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く大物主神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神は大物主神を祀ることで国造りを終えている。
つまり、大物主神と大国主神を別の神としている。
ところが、『日本書紀』の異伝では大物主神を大国主神の別名としている。
つまり、大物主神と大国主神を同神としている。
一方、『ホツマツタヱ』は日本神話の「神」を「人」としているので、オオモノヌシを1神名ではなく、初代クシキネ (オホナムチの別名)から六代アタツクシネ(阿田都久志尼命)に渡る役職名としている。

●明天町 金刀比羅宮 境内社秋葉神社

秋葉神社の社は金刀比羅宮の社とは部位のバランスが異なるものの、同じ銅版葺流造の社だ。

明天町 金刀比羅宮 境内社秋葉神社

狛犬は金刀比羅宮の狛犬とは別物で、一般的なものである。
神紋は丸に七葉もみじ紋。
総本社である秋葉山本宮秋葉神社に倣えば、祭神は火之迦具土大神である。
日本の神社は一般には境内社を含めると最も多い神社は稲荷神社だが、愛知県に限っては境内社を含めると、おそらく秋葉神社がもっとも多い神社だ。
私見だが、その理由は尾張は台風の被害が多い土地柄であること。
もう一つは江戸幕府が成立して名古屋城下が開かれた時に、清洲越し(清洲から名古屋へ城下町を丸ごと移転した)を経験していること。
さらに尾張は歴史上もっとも戦乱の多かった地であったこと。
これらのことから、何か事が起きた場合、家を新たにもう1軒再興できる資産を形成しておくことが尾張人の基本になった側面がある。
このことは名古屋から嫁を貰えば、家が1軒付いてくるという伝説を生んだが、半分は事実だった。
実際、嫁入りでは複数台の大型トラックがタンスや家具を満載して、乗用車に続くといった尾張特有の光景が見られる時代があった。
その尾張人が戦国時代から現代に至るも、もっとも恐れたものが火災だった。
戦国時代には焼き打ちが多く使われた。
住居が焼ければ、国力が低下するし、住民は家を再興するための基本資産を消費してしまうことになるからだ。
住居を失う恐怖ではなく、家を新調できなくなる恐れを解消するためにもっとも必要とされた神が火伏せの神である秋葉さん(火之迦具土大神)だったのだ。

明天町 金刀比羅宮 境内社天照皇大神宮

神門には丸に十六葉八重表菊紋(十六菊花紋)の神紋が装飾されている。
十六菊花紋は大正期に正式に皇室の紋章と定められるまでは自由に使用されてきたので、以下のような「十六菊花紋もなか」などの商品も存在する。

十六菊花紋もなか

ところで、神門に飾られた十六菊花紋金具をヘッダー写真に拡大使用しようとして驚いた。
菊花中央の管状花が円形に集まった部分に木瓜紋(もっこうもん)が入っていることに気づいたのだ(ヘッダー写真)。

木瓜紋

しかも、天照皇大神宮神門には十六菊花紋金具は天地逆に取り付けてあった(ヘッダー写真は天地を正しく修正してある)。
木瓜紋は津島市という鳥居前町を開く元になった、天王信仰の総本社である津島神社の神紋である。
明天町の金刀比羅宮が「津島金刀比羅宮」とも呼ばれることから、神職あるいは氏子が金具職人に意図して注文したものなのか、またはアマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ:占い)を暗示させる意図があって十六菊花紋と木瓜紋を合体させたのか、あるいは単に金具職人によるいたずらなのか。
キリンビールのラベルのように、職人は人知れず、こうしたいたずらを仕掛ける場合がある。

今や十六菊花紋が古代から中近東やエジプトで使用されてきたことはよく知られていることだが、日本では古代から皇室が十六菊花紋を使用してきたことを証明するものは見当たらない。
現時点では皇室に十六葉八重表菊紋が定着したのは後鳥羽朝(1183年〜1198年)以降のことだったとされている。

●明天町 金刀比羅宮 境内社白玉龍神

ここまで紹介してきた明天町 金刀比羅宮3社の覆屋の北側の脇の奥にひっそりと祀られている覆屋があった。

明天町 金刀比羅宮 境内社白玉龍神

覆屋の石垣に沿って、石畳の短い参道が設けてあり、その参道に沿って石造の献灯台。
参道の正面には銅版葺切妻造平入で吹きっぱなしの覆屋があり、その屋内に何か置かれている。

明天町 金刀比羅宮境内社白玉龍神 石

その覆屋の中を覗き込むと、象牙色と紺桔梗のゼブラカラーになった自然石の上に石化した木片かのような薄桜色の節理のある自然石が乗っている。
この石に関する情報は覆屋前に置かれた水鉢に刻まれた「白玉龍神」の神名のみだ。
白玉龍神は名古屋市中村区、滋賀県東近江市、広島県世羅町にも祀られている情報がある。
名古屋市中村区の白玉龍神は社のみを玉垣で囲った、ごく小さな神社だが、社は5本の鰹木と外削の千木を持つ男神を示す立派なもので、神前幕には津島神社と同じ、木瓜紋(上記、境内社天照皇大神宮で図版を紹介)が入っている。
このことから中村区の白玉龍神は津島金刀比羅宮境内社白玉龍神と直接関係がある可能性がある。

●世羅町 巳徳神社

一方、広島県世羅町の巳徳神社(みとくじんじゃ)は白玉龍神を主祭神としているが白玉龍神を祀っている神社の中で唯一、拝殿・本殿を持つ神社だ。
巳徳神社では例祭は毎月7・17・27日、大祭が春に盛大に執り行なわれ、全国各地から参拝者が訪れるという。
そのことから、社前に広い駐車場を持っている。
巳徳神社社頭の石鳥居の前には、左右対になった石柱を注連縄で結んだ神門が設けられ、その両柱には「神徳昂揚」「開運招福」の文字が刻まれている。
おそらく、この巳徳神社が白玉龍神の総本社と思われる。
ただ、巳徳神社に関連するネット情報でも、白玉龍神に関する情報は神門に刻まれた神徳以外には見当たらない。
白玉龍神の「白玉」とは「白いドラゴンボール(宝珠)」のことだろうか。
尾張と東近江市は比較的近いが、広島県の山間部にある巳徳神社とは離れており、他地域に白玉龍神の情報が無いことからすると何か両地域を結びつける要素が存在するのかもしれない。
調べてみると、巳徳神社の存在する広島県世羅町は平安時代から高野山龍華寺(真言宗寺院)を中心にして繁栄した土地だという。
つまり、龍神と関係の深い真言宗寺院が広島県世羅町の白玉龍神と津島市明天町の白玉龍神双方に関わっていることが明らかになったのだ。
ただ、津島金刀比羅宮の白玉龍神になぜ石が祀られているのかは不明のままだ。

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明天町 金刀比羅宮では中央に国津神である大物主神が祀られ、両脇に従えるように格上の天津神である天照皇大神と火之迦具土大神(スサノオの別名)が祀られる形になっています。これは異例な祀り方だと思われますが、両脇の境内社天照皇大神宮の神紋金具と火之迦具土大神の裏にスサノオ(『ホツマツタヱ』によれば初代大物主であるオホナムチの父親)が隠れていると受け取るなら、ここにはスサノオ&大物主親子が祀られていることになります。
しかし、まさか、そこまで考えて十六菊花紋に木瓜紋(スサノオのトーテム)を隠したのでしょうか。

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