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麻生田町大橋遺跡 土偶A 148:東海地方最大の貝塚
牟呂用水に架けられた橋にネーム・プレートが無い橋であったことから、この記事の直前の147の記事で「牟呂大西町 不明橋」と表記していた橋が、一つ下流の橋に「下大西橋」のネーム・プレートがあったことから「大西橋」である可能性が高いことが判明しました。そこで、以下の記事では「大西橋?」の表記に変更して記述していきます。
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大西橋?上から上流側を眺めると、上流側の大海津橋から望遠レンズで見たのと違い、
大西橋?の上流30m以内に設置されているボトル・ネックは、わずかなものにしか見えないが、ボトル・ネックの下流部分から水流が速くなったことから波が立ち始め、下流になるに従って波は大きくなっている。
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大西橋?のすぐ上流右岸に設けられた高水敷の膨らみに伴って、高水敷に降りるための2段の石段が設置され、高水敷の膨らみのすぐ下流には浮子をつなぐ紐も張られていた。
左岸(上記写真右手)の高水敷は姿を消し、護岸壁は垂直のコンクリート壁に変わっている。
一方、下流側を見ると、水路は右に急カーブしているが、波はさらに大きくなっており、水の勢いも強くなっている。
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左岸の家屋には落陽が照り映えているのが目立ってきている。
大西橋?から左岸沿いの道路を下流に向かって60mあまり辿ると、レンガ造のゲートのようなものが牟呂用水内に設置されていた。
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左右のゲートのようなものの内側には縦にスリットが設けられており、水門のガイドであることが推測できた。
地図を見ると「牟呂発電所址(樋門)」と表記されている。
水路内を見ると、高水敷に段差があり、かつては水門でせき止めた水をこの段差を利用して流し落とし、発電に利用していたのだろうか。
だが、現在の状況には樋門としての機能は見当たらない。
牟呂発電所址から130m以内に架けられた下大西橋に移動。
下大西橋から上流側を見下ろすと、30mあまりの上流に、まだ新しい2基の水門が並んで設置されており、直線距離で7.6km上流の盛岡町で消滅していた水路の分割壁が再び出現していた。
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新しい用水路脇には幅50cmほどの高水敷も設けられている。
下流側を見下ろすと、分割壁は継続されており、2本の開渠(かいきょ)が揃って右にカーブしていた。
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下流側でも空色にペイントされた水管が通されており、右岸の高水敷に設けられたコンクリートボックスには樋門のハンドル(上記写真右端下)が取り付けられていた。
下大西橋上から140mあまり下流に架かった牟呂大西町2基目の名称不明の橋(以下「牟呂大西町 不明橋2」と表記)に移動。
不明橋2上から上流側を眺めると、右岸(下記写真左手)の高水敷に設けられた鉄格子の蓋と3基の水門を持つ分岐ボックスが設置され、牟呂用水を分岐用水路に流し込んでいるところだった。
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牟呂用水の水がコンクリートボックスに吸い込まれている。
牟呂用水の水面とは対照的に左岸用水路(上記写真右側)の水面は非常に静かだ。
70m近く上流に高水敷と分割壁に段差があるのが見え、その脇から牟呂用水には波が立っているのが見える。
高水敷の段差は牟呂発電所址で見られる段差と同じくらいだ。
下流側を見下ろすと、不明橋2のすぐ脇に両岸の高水敷にコンクリート板が渡してあり、ベルトドライブを持つ青くペイントされたモーターらしき装置が設置されていた。
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見ただけでは、その用途はよく解らない。
右岸の護岸上を見ると、ガードレールではなく、白い鉄パイプの柵が巡らされている。
その奥に下流70m以内に位置する牟呂大西町の無名橋が見えている。
そして、上記写真右端の森には大西貝塚が存在した。
不明橋2上から大西貝塚方向を撮影したのが下記写真。
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右手に延びる道路が不明橋2を通っている道路で、その歩道に面した大西貝塚は現在は墓地になっていた。
歩道を背にした堂(上記写真瓦葺黄土色の小さな建物)があり、覗いてみると、複数の地蔵菩薩などの石仏が奉られていた。
歩道に背を向けて設置されているのはこの墓地に埋葬されている人たちを鎮魂するための石仏だからだろう。
墓地なので、中に踏み込むのは遠慮した。
豊橋市美術博物館の公式ウェブサイトの「大西貝塚」の項目には以下の解説文があった。
所在地 豊橋市牟呂大西町
種別 埋蔵文化財包蔵地-貝塚
時代 縄文時代
三河湾に面した標高2メートルほどの旧海浜部に立地する、縄文時代晩期の東海地方最大の貝塚です。 発掘調査は、昭和62年度以降に4回が豊橋市教育委員会によって行われています。調査によって、貝塚は縄文時代のものが長さ185メートル、幅40メートルと大きく、近世の貝層を含めると長さ235メートル、幅105メートルもあることがわかりました。 貝層はハマグリが約90%も占める純貝層で、厚いところで2.5mもありました。貝塚からは地床炉109カ所、敷石炉5カ所などが見つかっています。 遺物には縄文土器や石器、骨角器、貝輪などが若干出土していますが、日常品が少ない点が特徴です。このため、大西貝塚は干し貝を専門に作る貝加工場であったと考えられています。 大西貝塚は、現在はほとんどが宅地になっていますが、大西橋横の墓地部分にはまだ貝殻が露出しています。
牟呂大西町 不明橋2から下流の牟呂大西町 無名橋に移動。
無名橋上から上流側を見ると、右岸(下記写真左手)の森の中(大西貝塚)に大きな墓碑が3基立ち上がっている。
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水路内を見ると、両岸とも高水敷がかなり広く変化しており、右岸には合わせて3.5mくらいの広い場所があった。
両岸は高さに差が出てきており、左岸(上記写真右手)が高くなってきている。
下流側を見ると、高水敷が広がったまま左にカーブしており、両岸の高低差はさらに広がってきていた。
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水路の行く手には若緑色の帯を持つ建造物が見えている。
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牟呂用水の左岸を辿って行くと、上記の謎の建造物が右岸高水敷内を流れている用水と関係のある建造物であることが判ってきました。