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麻生田町大橋遺跡 土偶A 6:古墳を結ぶレイライン

豊川市の炭焼古墳群の中で、古墳の敷地が不完全ながら確保されているのは4号墳のある場所と15,17,18,19号墳の敷地が確保されている2ヶ所のようで、15,17,18,19号墳の敷地は4号墳の敷地の北西250mあまりの県道21号線に面した場所に位置していました。

●麻生田大橋遺跡土偶A
1MAP炭焼古墳群

4号墳の敷地の東の角地には石を組んだ小さな塚が設けられており、南西を向けて祀られた石祠と『記』と題された板碑が並べて塚の上に設置されていた。

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石祠は新しく、現代のプレーンな形体をしており、板碑に刻まれた記の部分は読めそうで読めず、社名は不明。
しかし、板碑『記』の中に13人の名前が記され、それとは別に名前はないが「記」を記した「若宮宮司」という役職名が刻まれていた。
周辺の神社を調べてみると、この石祠の北西800mあまりの場所に東上町 若宮神社が祀られているのに気づいた。
この若宮神社の祭神は仁徳天皇となっているので、本宮は父親の応神天皇を祀った八幡神社ということになるが、この石祠はおそらく、仁徳天皇が分祀されたものなのだろう。

4号墳敷地から愛車に戻り、県道21号線の北西にある交差点に向かった。
ちなみに、向かった道路の延長上に東上町 若宮神社は存在している。
言ってみれば、このガラス・ハウスに左右を挟まれた道路は若宮神社の参道のようなものなのだ。
15,17,18,19号墳の敷地は県道21号線の交差点の北東30m以内に位置している。
その敷地内に4基の円墳が存在していたというのだが、どの円墳が何号噴かという情報が無いので円墳の号数を示すことはできないのだが、4号墳の後円部と東上町 若宮神社の本殿を結ぶと、そのラインは4基の円墳のうち、もっとも東にある円墳を通過している。
炭焼古墳群は40基以上が存在するので、このレイライン上には複数の円墳が存在する可能性があるが、おそらく、偶然ではないだろう。
この円墳と4号墳を結んだ延長上を選んで、東上町 若宮神社は祀られた可能性がある。
15,17,18,19号墳の敷地は広がる畑地の一角にあり、県道21号線の歩道に面していた。
県道21号線のこの部分は歩道が車道より1.5m以上高くなっており、YAHOO!地図で標高差を調べてみると、15,17,18,19号墳の方が4号墳よりも11.3mも高い場所にあることが判った。

21号線の交差点脇の歩道上に愛車を駐めて、歩道を東に登って行くと、15,17,18,19号墳の敷地は柵で囲われているものの、柵内は50cmほどに伸びた雑草で覆われていて、円墳の痕跡は一つも視認することはできなかった。
西端の円墳とその東隣の円墳の狭間で、歩道寄りの場所に黒っぽく焼けた板碑が頭を出していた。

1炭焼古墳群碑

円墳の頂上部分は、やはり、微かに草の穂も高くなっているのが感じ取れる。
板碑のこちら側には「炭焼古墳群」と刻まれているようだ。

2炭焼古墳群碑

この草原の中には、さらに中央の2基の円墳の狭間にも加工された石が頭を出しているのだが、何のための石なのか不明だ。

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この石の近くの歩道に沿って4号墳の入り口に建てられていた案内板『炭焼古墳群』とまったく同じ内容の案内板が建てられていた。

4案内板

この草原で確認できた人工物はこれら3点だけだったが、最も東に位置する円墳の歩道際に気になる果実が白く毛羽立った複数の実を結んでいた。

5ガガイモ?

それは下記写真のガガイモの果実をスケールダウンしたような果実だった。

6ガガイモカヤック

レイライン上に存在するこの果実。
こういうものはフィールドワークを楽しむために“神の啓示”かもしれないと考えるようにして楽しもうと思う。
『古事記』にはこうある。

故、大国主神、出雲の御大の御前に坐す時、波の穂より天の羅摩船(かがみぶね)に乗りて、鵞の皮を内剥に剥ぎて衣服に為て、帰り来る神有りき。爾に其の名を問はせども答へず、且所従の諸神に問はせども、皆「知らず。」と白しき。

《小生意訳》
鵞(蛾)の皮のジャケットを着た小さな男が波の向こうから天の羅摩船(=ガガイモの果実をカヤックのように仕立てた乗り物)に乗ってやって来たが、大国主がその男に名前を聞いたが答えず、誰も彼の名前を知らなかった。

ガガイモの果実は乾燥すると二つに割れて中から白銀色の毛を持った種子が風に乗って飛び散るが、割れた果実の断面も白銀色をしており、これらを反射物の「羅摩(かがみ)」と表現しているのだと思われる。
また身につけているジャケットの鵞(蛾)の皮も鱗粉でメタリックに輝いていたと思われる。
この白銀の王子の名前は少名毘古那神(スクナビコナ)と言った。
このガガイモの果実をスケールダウンした果実の周辺にスクナビコナが祀られている神社があるか調べてみた。
列島にスクナビコナが主祭神として祀られている独立した神社はごく少ないのだが、豊川市ではただ1社、小田渕町に少彦名神を主祭神とし、大国主神とともに祀る淡洲神社が祀られていた。
この二柱は国土を開発したコンビとして知られているが、実は三河一宮の砥鹿神社(とがじんじゃ)の主祭神は大国主神の別名である大己貴命なのだ。
本宮山に砥鹿神社奥宮が祀られており、炭焼古墳群はその本宮山の麓に位置している。

ところで、『ホツマツタヱ』は大己貴を初代大物主としており、大国主は大己貴の息子(クシヒコ=初代コトシロヌシ)としている。

それはともかく、試しに4号墳の後円部と本宮山山頂を結んでみたところ、このラインは砥鹿神社奥宮の北側の鳥居を通過していたが、4号墳と東上町 若宮神社を結ぶレイラインとは一致していなかった。

そして、ガガイモをスケールダウンした果実だが、各種植物図鑑、雑草図鑑、綿毛の飛ぶ植物図鑑などで調べたのだが、現時点では正体をつかむことができなかった。

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ガガイモをスケールダウンした果実ですが、果実その物が白い毛を持っており、ガガイモのように二つに割れると中から白い綿毛を持った種子が飛び出す可能性はありそうです。4号墳はアザミの綿毛に包まれていましたが、植物には綿毛を持った種類が好む風の吹きやすい地形を感知する能力があるのだろうか。

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