伊川津貝塚 有髯土偶 61:二つの河口
愛知県田原市吉胡町(よしごちょう)の田原市中部ポンプ場から、汐川と並行した農道を汐川河口に向かうと、830mあまりで汐川の堤防は行くてに回り込み始めました。すでに河口が近いことが解ってきましたが、堤防は高くて登れないので、汐川の様子は見られませんでした。それで、汐川沿いを走るのはあきらめて汐川から離れ、汐川と並行した幹線道路に出て、汐川干潟の西側に迂回して汐川河口を見ることにしました。
幹線道路に出て北上すると、260m以内で幹線道路の左右に不明の水路のある三叉路に出た。
その水路も汐川干潟に流出しているだろうから、その河口の右岸に向かわないと、汐川河口から遠ざかってしまうと思っていると、その三叉路からその水路の堤防上に分岐して入って行くことのできる道のあることに気づきました。
その道は未舗装の分岐道でしたが、登って行くことにした。
すると、その分岐道の先には水門(MAP2内に表示)があった。
しかも、水門の脇からはその水門のある水路の下流側先に汐川干潟が広がっているのが見えた。
そして、汐川河口を観るには左岸の堤防上を汐川干潟に向かった方が角度が良さそうだったので、そちらに向かった。
堤防上の道はコンクリートでたたかれ、通路幅は5mほどだ。
その通路を汐川干潟に向かうと、愛車のエンジン音で堤防下に沿って流れる幅の広い用水路から複数羽のシラサギなど、複数の野鳥が飛び立った。
水門から140mあまりで、その水路の河口に出た。
水路の堤防は90度左(北西)に折れて汐川干潟の堤防となり、そのまま東の三河湾入海に向かって延びている。
90度折れる堤防上の角地から汐川河口を撮影したのが下記写真だ。
右側から中央に向かって突き出しているように見えるの堤防が汐川の左岸堤防のカーブしている部分で、その向こう側が汐川、汐川の向こう側が谷熊町の街並み。
写真手前側が汐川干潟だが、潮が満ちていて、水面しか見えない。
同じ堤防上から汐川干潟越に三河港大橋(MAP1に表記/下記写真奥の左半分の部分)を眺望したのが下記写真。
三河港大橋をズームUPにしたのが以下。
汐川河口と三河港大橋の間が「汐川干潟」と定義されている。
三河港大橋の向こう側左手に見えるのは豊川市の山脈だ。
『愛知県河川整備計画流域委員会HOMEPAGE』の資料「1. 流域及び河川の概要」(P5)には以下のようにある。
さっき、用水路から飛び立った野鳥の中にシギ・チドリ類が混じっていたのかもしれない。
堤防上から足元の汐川干潟を見下ろすと、100mほど北側に何かあるので見に移動すると、下記のような並行した1mほどの長さの桟橋のようなものが2本汐川干潟に向かって突き出しており、2本の突き出しの間はコンクリートでたたかれた緩やかな傾斜になっており、潮の下に水没している。
小型ボートサイズの漁舟を揚げるための船台(せんだい)用レールだと思われる。
船台とは舟を陸置きするための車輪の付いた台だ。
上記MAP2を制作していて驚いたのは水門のある「不明の水路」が、なんと!「汐川の続き」であることが判明したことだ。
現在の汐川は、かつて右岸だった場所が汐川干潟になってしまっており、一旦、第1の汐川河口(最初の写真)が存在するのだが、汐川干潟の先にまだ「続きの汐川」があったのだ。
つまり、続いている方の汐川には第2の河口が存在するのだ。
下記写真は水門下の右岸堤防内側(下記写真右手)に降りて、続いている汐川のもう一つの河口に向かって撮影したもの。
最初の汐川河口の写真(MAP2内①)は上記写真左側堤防の先端部から撮影したの。
続きの汐川は水門下(実は上流)でくの字に折れている。
くの字部分の河床の堆積した土砂の形をみると、上記写真手前(汐川下流側)からの水流でできた形状だ。
つまり下流側で大雨が降った場合には水門を開けて汐川干潟の方に放流しているのだと思われる。
この部分の河床には上面に突起のあるコンクリートブロックが並べられていた。
これは水門から放流された水流のスピードを殺すための河床ブロックだと思われる。
以下は汐川上流側堤防内から撮影した水門。
撮影した時は3分割された水門は3基とも開いていたが流水は無い。
水門は下部が上げてあり、汐川干潟からの水が下流に流れ込まないようにしてある。
水門に上がって、汐川下流側を見下ろすと、護岸はされておらず、川幅は一定していない。
下流に見える白いガードレールの部分が、やって来た幹線道路。
汐川は幹線道路下の暗渠を抜け向こう側(北側)に続いている。
幹線道路の三叉路に戻ると、幹線道路を含めた2つの道路に挟まれて溜池ができていた。
汐川の終点は汐川干潟ではなく、この溜池だった。
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汐川を辿るフィールド・ワークもここで終了です。汐川下流の吉胡町は0m地帯だそうです。愛知県ではこれまで南海トラフを震源とした海溝型地震により、100〜150年周期で地震・津波被害に襲われていますが、近年に起きた3つの地震が以下です。
1707年 宝永地震 M8.6 渥美表浜の津波は6〜7m
1854年 安政地震 M8.4 渥美表浜通の津波は8〜10m
1944年 東南海地震 M7.9 津波は波高1m内外
東南海地震が起きたのは戦時中で、知多半島にあった中島飛行機(現・株式会社SUBARU)の陸軍軍用機生産工場が壊滅しましたが、その時には米軍機が知多半島一帯に「地震兵器で攻撃した」という内容のビラを航空機から散布しました。つまり戦時中に米国はすでに地震兵器の構想を持っていたことになります。