麻生田町大橋遺跡 土偶A 34:湧き水のある弁財天(再録版)
またも写真と文の一部が’表示されなくなるトラブルが発生しましたので、再度記事をUPします。
豊川市の龍神系の神社を巡ろうと検索したところ、多くはありませんでした。そのうちの1社、おゆき弁財天が麻生田町大橋遺跡の東北東310mあまりに位置していました。
豊川の東岸に広がる金沢町には麓からの標高差90mほどの丘陵が立ち上がっていて、その丘陵の北側の麓におゆき弁財天は存在した。
おゆき弁財天のある丘陵にアタックできる県道69号線は牟呂松原幹線水路によって、丘陵から隔絶されており、どこから牟呂松原幹線水路を渡ればたどり着けるのか判らず、複数の橋を渡ってみては、おゆき弁財天への道を探した。
結局、真っ先に目をつけた橋からしか、おゆき弁財天への参道に入ることができないことが判明したのだが、最初にその橋から丘陵を眺めたときには、その森に神社がある兆しはまったく感じられなかった。
その橋上から牟呂松原幹線水路の東方向を撮影したが下記写真だった。
右手がおゆき弁財天のある森。
左手奥に尖った山頂を見せているのは豊川市と新城市の間にそびえる吉祥山(きちじょうざん)だ。
この日の牟呂松原幹線水路は水量が多く、このすぐ下流で牟呂用水路と松原用水路とに別れるが、それを別ける堤壁が水面下に薄っすら透けて見えている。
牟呂松原幹線水路は自然流下だけで下流(上記写真手前)に流れている。
牟呂松原幹線水路は豊川と120mあまりまで接近しているものの豊川に流れ込むことなく、分流した松原用水路が豊川を横断して豊橋市大村町に向かっている。
牟呂松原幹線水路を撮影した橋を渡ると、橋からの道は竹と樹木の混合した森の中に向かっていた。
愛車を森の入口脇に駐めて、その道を辿り、森の中に入って行ってみた。
森に入って10mも進まないうちに右に分岐する通路があり、その分岐点に「おゆき弁財天」の標識が立てられていた。
分岐点に標識があるので、左右どちらにおゆき弁財天があるのかはっきりしなかったが、牟呂松原幹線水路と並行して西に向かう分岐路の方に向かった。
暗い森の中、枯葉が厚く重なった通路を80mあまり辿ると、行く手が広がっており、常夜灯や建物があるのが見えてきた。
鳥居は見えず、対になった常夜灯の間が入り口のようになっており、その奥10m以内に瓦葺切妻造で正面に堅繁舞良戸(たてしげまらいど)が閉め立てられた東向きの社殿がある。
広場の右手には境内社が祀られている。
この広場の床は瓦礫石が敷き詰められ、踏み固められているように見える。
常夜灯の間を抜けて社殿前に出ると、社殿の基壇前に置かれた拝石には豆煎餅と5円硬貨が置かれていた。
この社殿前で参拝した。
この広場の南側には教育委員会の製作した大きな案内板『おゆき弁財天の由来が』掲示されていた。
この由来書によれば、ここにある建物は社殿ではなく、霊舎ということだ。
だが、おゆきと弁財天が結びつけられた経緯がまったく解らない。
霊舎の北脇に回ってみると、霊舎の最奥脇に自然石で護岸した水壺(池と呼ぶには小さ過ぎる)のようなものが設けられていた。
井戸とは違い、底はごく浅いものだ。
水路がどこかにつながっている様子は無い。
霊舎の裏面を回って南側に出ると、そちら側にも同じように水壺が設けられていた。
護岸されている石垣の荒さからすると、二つの水壺は霊舎の床下でつながっているのかもしれないと思われた。
社殿の地下を水路が通り抜けている例は豊川の上流に位置する新城市の岩倉神社でも見てきている。
ここが弁財天と結び付けられ、丘陵の麓に位置することからすると、湧き水があった可能性が考えられる。
つまり、湧き水を護岸整備した上に霊舎を設けたのではないかと考えた。
湧き水が豊富であった時代にはここの湧き水が北40m以内を流れている牟呂松原幹線水路に流れ込んでいた可能性があり、牟呂松原幹線水路が築造される前、おゆきの没した1684年には牟呂松原幹線水路の基になる水路が存在した可能性は考えられる。
この牟呂松原幹線水路はほぼ平行して流れている豊川から取水され、途中、複数の水路の水を取り込んで流れており、豊川が氾濫した時には豊川の一部になった可能性があるからだ。
霊舎前の広場の北側には南向きに銅板葺白木造の稲荷社と不明の石祠が祀られていた。
おゆき弁財天は竹林に囲まれた非常に静かな弁財天だった。
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おゆき弁財天から下条西町にある市杵嶋姫神社に向かうことにしたのですが、途中にある目についた複数の場所を経由しながら、向かうことにしました。