御用地遺跡 土偶 36:熊野神社のスメル
安城市御用地遺跡の西270m以内に位置する尾崎町の熊野神社に向かいました。
熊野神社のミサキ(=神使)である八咫烏(ヤタガラス)が天日鷲命(アメノヒワシ)の別名とするなら、直前に訪問した和志取神社(わしとりじんじゃ)と無関係ではないことになりますが、その和志取神社には字(あざ)和志取から熊野神社が合祀されています。
鬼門である北東側の田園地帯から尾崎町の熊野神社の杜に向かうと、暗い社叢に包まれた森が立ち上がっていた。
その森の東側に回り込むと北西に向かう脇参道があり、その脇参道の入り口脇に愛車を駐めて脇参道に入った。
30m近く進むと右手に3社の社殿の並ぶ広場に出た。
社頭を探すと、左手60mあまり先に大鳥居が見えた。
社頭に向かうと南西に向かう大鳥居の前にも広場と言ってもいいスペースがあり、表道路に面していた。
大鳥居は表道路から30m近く引っ込んだ場所に設置されていた。
その表道路が旧東海道であることに後になって気づいた。
尾崎町 熊野神社の社頭脇に一里塚があり、その一里塚まで江戸日本橋から83里だという。
旧東海道だけではない。
熊野神社の西側に面して鎌倉街道も通っていたという。
旧東海道から大鳥居に向かうと、大鳥居の正面奥に拝殿が見通せたが、そこまでは120m近くある。
石造八幡鳥居の手前から砂利を敷き詰めた表参道が奥に延びており、表参道の左手は別の広場、右手は暗い森になっている。
表参道の両側は桜並木だ。
大鳥居をくぐって、表参道を50m近く進むと、砂利道が尽き、左手には噴水のある池があった。
噴水は機能していないようで、その代わりに景観を壊しているが、塩化ビニールパイプが延ばしてあり、複数箇所からチョロチョロ水が落ちている。
池の周囲には複数の巨石が置かれており、線刻石が紛れ込んでいる可能性があるので、池の周囲を巡ってみることにした。
池の左手に回り込んだところ、池の中央にある噴水とプールが須弥山儀(しゅみせんぎ)になっていることに気づいた。
池を風輪に、円形のプールを水輪に見立て、プールの縁に環状に並ぶ小石を鉄囲山(てっちせん)に見立てているわけだ。
須弥山儀とはサンスクリットを漢字に音訳した「須弥山」を核としたインド神話の宇宙観を表した模型で、サンスクリットをラテン翻字した「sumeru」は人類最古の国家シュメールやスメラミコト(天皇)に通じている可能性がある。
サンスクリット語の「ス(シュ:su-)」は「善」を意味するという。
須弥山の宇宙観はジャワ島には仏教やヒンドゥー教を通じて伝わっており、スメル山(=マハ・メル山)が存在する。
新潟県に存在する妙高山の「妙高」も「スメル」を意訳したものだという。
・有頂天(うちょうてん:弥山の頂天)=強い喜びの状態を表す表現。
・金輪際(こんんりんざい:金輪の最下底)=極限状態を表す表現。
上記は須弥山の宇宙観から派生して一般用語として定着した言葉だ。
池の傍に凝った造形の石灯籠が1基設置されていた。
火袋には狛犬が装飾され、基礎の格挟間(ごうざま)には波に兎と水龍の浮き彫りが装飾されている。
池の周囲の石は全部チェックしたが、特に興味を惹かれるものは存在しなかった。
表参道に戻ったが、池の脇から砂利の無い広場になっており、池から40mあまり先に瓦葺入母屋造平入で前面が舞良戸に覆われた拝殿が設置されていた。
これだけ大きな神社なのに、境内にもネット上にも由緒書は見当たらない。
ただ、『み熊野ねっと』というサイト(https://www.mikumano.net)に
『平安鎌倉古道』を出典とした尾崎町 熊野神社に関する以下の情報が紹介されていた。
土地の古老の話の伝聞によると、和銅の昔、豊阿弥長者が屋敷の北に御堂を祭り、後の承久の変の頃、熊野三山の検校職(僧侶・寺社の総取締役)良尊法師により碧海郡に21箇所の祈祷所がおかれ、うち1箇所が熊野神社として受け継がれたもの。
上記の「21箇所の祈祷所」の1箇所が和志取神社に合祀され、「熊野神社として受け継がれたもの」が、ここ尾崎町 熊野神社なのだろうか。
《熊野神社の主祭神事情》
尾崎町 熊野神社の情報が無いので、祭神に関しては和歌山県田辺市に存在する熊野神社の総本社である熊野本宮大社の主祭神を観てみるしかないのだが、熊野の神は時代によって、呼称が異なり、神社自体が三山形式(本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)となっており、三社でそれぞれ主祭神が異なる。
さらに神仏集合していたので、それぞれの神の本地仏(神として日本に現れた本来の仏)も異なる。
さらに本宮大社の社殿は3社に分かれており、その3社がそれぞれ4殿の社殿を持っており、主祭神である家都美御子大神(ケツミコ)は名称から最上位にあるとみられる上四社に祀られているのだが、第一殿に祀られているわけではなく、第三殿に祀られている。
実はここまでの情報はWikipediaの情報をもとに書いているのだが、熊野本宮大社の公式ウェブサイトとは情報が異なっている。
例えば、公式ウェブサイトでは熊野本宮大社の主祭神は家都美御子大神と素戔嗚尊(スサノオ)の2柱としている。
家都美御子大神は素戔嗚尊の別名とする説があるので、Wikipediaが紹介しているように主祭神は家都美御子大神1柱でも間違いではないのだが、家都美御子大神には素戔嗚尊の別名とする説の他にWikipediaに紹介されている説だけでも、少なくとも6説存在し、その、他説同士が別名の関係にあったりする。
しかも、その、他説の神が同じ熊野本宮大社に祀られていたりする。
さらに、家都美御子大神自体が、時代によって熊野坐大神(クナヌニマス)、あるいは熊野加武呂乃命(クマヌカムロ)とも呼ばれていた。
小生が公式ウェブサイトではなく、Wikipediaの方の情報を取り上げているのは現在ではWikipediaの方が情報が多面的であり、客観性があるからだ。
そして、御用地遺跡関連としてここで尾崎町 熊野神社を取り上げているのは、私見で土偶と関連しているとみているイザナミ、あるいは水神が熊野神社に関係しているからなのだ。
家都美御子大神には伊邪那美神の別名とする説と水神とする説が存在し、伊邪那美神は熊野本宮大社の公式ウェブサイトでは上四社の第一殿に祀られている。
ちなみにWikipediaの熊野本宮大社情報では伊邪那美神という名称では祀られていない。
しかし、日本各地の熊野神社にはイザナミが祀られている場合が多く存在する。
いずれにせよ、熊野の神に拝殿前で参拝して右隣に並ぶ2社を観に向かった。
熊野神社本殿の右隣には瓦葺切妻造平入の秋葉神社が祀られていた。
秋葉神社の右隣には瓦葺切妻造平入で向拝屋根を持つ覆屋が並び、その鳥居は20m以上も離れた場所にあり、
かつては熊野神社とは社頭を別にした神社だったのかもしれないが、社名は不明だ。
◼️◼️◼️◼️
ここ熊野神社の字名は「亥ノ子」と言います。
「亥ノ子」とは旧暦10月(亥の月)の上の(最初の)亥の日のことです。
主に西日本では亥ノ子に於いて、亥の子餅を作って食べ、万病除去・子孫繁栄を祈り、子供たちが地区の家を巡って、歌を歌いながら平たく丸い石や球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く行事を行いました。
子供たちが石を搗くと、その家では餅や菓子、小遣いなどを振舞いました。
亥の子餅は江戸時代には江戸・甲州にも伝わっていたといいますから、ここ三河(安城市)の亥ノ子にも伝わっていたのかもしれません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?