麻生田町大橋遺跡 土偶A 180:土壙と古墳のある遺跡
乙川(おとがわ)の流れからすると、少し遡ってしまうのですが、竜宮渓谷の真北に村上遺跡という縄文期の生活痕から古墳時代の墳墓が集合している遺跡が乙川右岸(北岸)の岡崎市丸山町に存在するので、そこに向かいました。そこは乙川の北側100m以内の場所です。丸山町という町名は丸山(=古墳)の多い地区ということで名付けられたと言われています。
現場は県道35号線から分岐して北に延びる農道だったと思われる道と、やはり南北に流れる村上川に挟まれた畑地だったと思われる拓けた場所だが、潅木に遮られて村上川は視覚には入らず、『村上遺跡遺構位置図』が掲示されていたのだが、「村上川」の表示が実際には可読性が無いくらい退色していたこともあって、この記事に取り掛かるまで、気づいたいなかった。
『村上遺跡遺構位置図』によれば、この遺跡には古墳のほかに竪穴住居跡、炉跡、土壙(こう:表示は土偏に広という簡略字が使用されている)などが配置されている。
下記写真は『村上遺跡遺構位置図』に表記されている「1号住居跡」の南東側から奥にある丸山古墳を入れて撮影したものだ。
住居跡は床が一段低くなっており、外郭部がコンクリートで縁取りされ、一部の床が方形にコンクリートでたたかれており、何かを示しているようなのだが、それに関する情報は見当たらない。
上記写真左手から写真中央に向かって並んでいる並木に沿って旧農道が通っており、古墳右奥の森の向こう側を村上川が流れていることになる。
ここに掲示されている「村上遺跡」に関して以下のように案内文があった。
下記写真は『村上遺跡遺構位置図』に表記されている土壙跡の南々東側から土壙(どこう)跡と古墳を入れて撮影したもの。
土壙跡のコンクリートが打たれた部分は河原石でも積まれていた部分だろうか。
土壙とは土を掘りくぼめて穴をつくり、そこに人の遺体を納めて葬送した遺構のこと。
古墳の元になった遺跡のひとつだ。
土葬に伴う世界的に見られる埋葬に用いられた遺構だが、日本では縄文時代~弥生時代に多い墓の形式だ。
下記写真は『村上遺跡遺構位置図』に表記されている炉跡の南々東側から炉跡と古墳を入れて撮影したもの。
円墳の丘陵上には団子状に枝葉を広げたお茶のような潅木が点在しているが、樹種に関する情報は無い。
石室入口には観音開きで、退色した水色の鉄格子の扉が施錠されて閉ざされていた。
入口部分の天井石が露出している。
丸山古墳に関しては以下のような説明文と「村上古墳実測図」が掲示されていた。
ここには「丸山古墳」という名称と、その旧名称と思われる「村上古墳」が混在して存在しており、古墳が2基存在するのかと誤解を生む状況になっている。
鉄格子の隙間から上記『村上古墳実測図』の「前室」の入口にあたる部分を覗き込むと、天井の楣石(まぐさいし)と左右の袖石(そでいし)は立派な1枚岩が使用されている。
羨道(せんどう)と前室の壁面の石積みも使用した石の大きさも揃っており、積み方も美しいものだった。
「後室」入り口の楣石と袖石も「前室」とほぼ同じ規格の石材が使用されているようだ。
後室は肉眼ではかなり暗いが、特別なものがありそうではないので、ストロボ撮影はしなかった。
丸山古墳の周囲を反時計回りに回り込み、北東方向から撮影したのが下記写真。
北西方向まで回り込んだところ、墳上に木質の何かが残っているので、何だろうと覗き込んでみると、切り株だった。
ヘッダー写真のように伐採されてから、かなり時間が経っており、キノコが発生していた。
この巨木の根で地面は堅そうなので、切り株の部分から墳上に上がってみた。
墳上は全体が固まっていたので、墳頂まで登って、切り株のある北西方向を撮影したのが下記写真。
旧農道は車が多くはないが、よく通っており、使用頻度の高い道のようだ。
ついでに羨道の天井石も墳上から撮影したが、上面は割り取っただけの石ではなく、完全に平らに磨かれていた。
丸山古墳の南西側から撮影したのが下記写真。
背後の森に沿って、村上川が流れているようだ。
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『全国遺跡報告総覧』によれば、村上遺跡は縄文中期を主にした遺跡で、縄文土器、磨石、凹石、石皿が出土しています。