
麻生田町大橋遺跡 土偶A FIN:乙川合流点は侵入不可だった
岡崎市康生町(こうせいちょう)の菅生神社(すがうじんじゃ)から対岸の左岸に位置する上六名町(かみむつなちょう)の三嶋神社に向かうために殿橋に戻って対岸に渡り、乙川(おとがわ)沿いの道は一方通行区間があるので、県道293号線などを迂回して南西側から三嶋神社に接近しました。



三嶋神社の社頭は三叉路に面していて、玉垣で囲われた杜の社頭は又の中央に開口しており、対になった幟柱、「三嶋神社」と刻まれた社号標、表通りから10mあまり引っ込んだ場所に石鳥居が南西を向けて設置されていた。

愛車を脇の玉垣沿いに駐めて、アスファルト舗装された表参道に入ると、石造明神鳥居の奥50mあまりに瓦葺の拝殿が見えた。

表参道を辿ると、入母屋造で大きな唐破風の向拝屋根を持った拝殿前に至った。

ここ三嶋神社の拝殿の向拝は日光東照宮のような特別な神社を除けば、観たことのないコストと労力をかけたものだった。
何より驚かされたのは頭貫(かしらぬき:左右の柱に渡した横架材)が上下二重にしてあることだった。

ここでは下側の頭貫と上側の頭貫の間には柱上と同じ斗栱(ときょう:荷重を支える構造材)を5基(柱上の斗栱を含めると7基)並べ、上側の頭貫上には唐破風屋根下にできるドーム形の空間をすっかり埋めてしまうような大きな蟇股(かえるまた:荷重を支えるための構造材)が装飾されていた。
屋根には特注の五七の桐紋を浮き彫りにした巴瓦(ともえがわら:○内に紋を装飾した瓦)が使用され、向拝屋根の頂点に飾った経の巻鬼瓦にも五七の桐紋が入っているが、両側には対にした花びらの凝った菊の花が装飾されていた。

向拝の屋根下には、やはり五七の桐紋を入れた銅板の破風(はふ)拝み飾りが装飾されているが、驚かされたのは、そのすぐ下に装飾された木造の龍の拝み飾りの浮き彫りが緻密な造作だったことだ。
このサイズで、ここまで緻密に造作された木彫は観た記憶が無い。

ともあれ、この向拝下で参拝した。
板書『三島神社』には以下のようにあった。
古称 三嶋大明神
祭神 大山祇命・猿田彦命・若一王子(にゃくいちおうじ)
由来 往古は鳥居氏の氏神であったが一旦廃絶
明暦四年(1658年)岡崎城主水野監物忠義公が武運長久祈願のため伊豆国
三嶋大社の三大明神(大山祇命)を勧請して再興・建立した
以後代々岡崎城主の崇信厚く、それを裏付ける棟札多数残存せり
社殿 創建当時の社が現本殿内に鎮座り
現本殿・幣殿・拝殿は大正六年十月の造営
社務所 昭和三十三年再建
当初は腫物になやむ人に霊験があり、祈願のため鰯を供えるならわしがある。これは文政の頃(江戸吸期)、矢作村持田某の息女がなまず(皮ふの一種)全快の報謝として鯰の絵馬を寄進したことに起因するといわれている。
熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられるが、若一王子は、その中の五所王子の第一位とされる神仏習合の神で、本地仏は十一面観音とされるが、天照大神あるいは瓊々杵尊(ニニギ)と同一視される神なので、明治の神仏分離に伴い、格の高い天照大神に姿を変えていることが多いらしく、個人的に熊野三山以外では初めて遭遇する神だった。
瓦葺の白壁が巡らされた拝殿脇に回ってみると、本殿覆屋を設置した部分は石垣で1mほど土壇が上げられていた。

本殿覆屋の床も高く、やはり洪水対策で、こうなっているようだ。
この神社は拝殿向拝の装飾だけが飛び抜けた神社だった。
その三嶋神社から乙川沿い左岸の道が利用できたので、下流に向かうと90m以内の乙川に架かった明神橋に登ることになった。
明神橋に至ると、歩道があったので、橋の袂に愛車を駐めて、徒歩で明神橋上流側の歩道を中央まで出た。
上流側を眺望すると、右手の右岸に、今寄って来た三嶋神社の玉垣と杜が見えている。

明神橋は水面からかなり高く、眺望が素晴らしい。
上流230m以内に架かっている名鉄本線の鉄橋が見えるが、その鉄橋の向こう側左手の森が岡崎城跡だ。
だが死角に入っているのか、天守閣は見えない。
気がつくと、上記写真右手の護岸が一部壊れており、巨石を重ねて補修されているのに気づいた。
ちゃんと、コンクリートで補修するより、コストのかからない補修なんだろうか。
明神橋の下流側の歩道に迂回するのは大変なので、スルーして、下流に向かったが、明神橋の下流1.4km以内には頭首工(とうしゅこう)が設置されている場所がある。

頭首工は小生も、乙川で初めて知った施設だが、農業用水を河川から取水するために河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設のことで、ここでは3分割された水門となっている。
用水路の頭の部分に当たることが名称の由来になっている。
この頭首工は水門が鮮やかなオレンジ色をしていて美しい。
やって来た時には左岸の水門だけが1基下げられ、水が落とされていた。

頭首工上から下流側を眺めると、下流側380m以内に架かっtいるJRの鉄橋が見えている。

乙川と矢作川(やはぎがわ)の合流点はJR鉄橋のすぐ下流あたりだ。
両岸は森と空き地があり、水面とともに静かだ。
JRの鉄橋の290mあまり下流で乙川は矢作川に合流している。
合流点を見るために乙川の両岸を走り回ったのだが、水面が見えたのは以下の場所だった。

上記写真右手にJRの配線が並んでいる。
この写真のすぐ左手あたりが乙川と矢作川の合流点だろうか。
両岸とも河川敷は厚い雑草と潅木に覆われていて、とても水際まで近づくことはできなかった。
◼️◼️◼️◼️
これで、麻生田町大橋遺跡から出土した土偶Aを口実に巡った東三河南部の記事187本は終了です。