麻生田町大橋遺跡 土偶A 93:眠り鴨と群れガラス
水源から豊川市金沢町まで、牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)沿いには森、田畑、住宅、ケアハウスなど、静かな環境しか存在しなかったのですが、初めて工場が出現しました。
下記写真〈上記地図内(1)の場所〉は金沢町櫛田の橋上から県道381号線の橋に向かって撮影したもの。
右岸(写真左)のにぎやかな設備群は鉄工所。
一方、対岸(写真右)は農園。
対照的な産業が牟呂松原幹線水路を挟んで存在している。
こうした環境は中世には両者の間で戦争が起き、大蛇(農耕民族)vs大ムカデ(鉄鉱業関係者)の伝承となって残っている。
これは古代に大和朝廷の支配下で起きた上毛国(かみつけぬのくに:現群馬県)と下毛国(しもつけぬのくに:現栃木県)の領地争いがベースになっているとみられている。
伝承名としては群馬県側では「赤城山の伝説」、栃木県側では「戦場ヶ原伝承」などと呼ばれており、以下のような内容だ。
ちなみに日光側の伝承では赤城山の神が蛇で、男体山の神がムカデと割り当てが逆転しており、赤鉄鉱の存在やムカデというキャラクターの設定を考えると、群馬県側説の方が科学的(?)だ。
上記写真の橋上から下流側〈上記地図内(2)〉を撮影したのが下記写真。
遠方に写り込んでいる橋(金沢町牟田)までは110mあまり。
ここまでの牟呂松原幹線水路では個人的に最も気に入った静かな場所であり、にぎやかな場所より癒される。
上記写真に写り込んでいる橋まで移動して橋上から上流側を見下ろしたところ、幹線水路の分割壁上で2羽の鴨がまったく同じ体制で、すでに眠るポジションに入っているのが見えた。
まだかなり明るいのだが、すでに午後5時は過ぎており、彼らのメロトニンはすでに休息の時間を指示しているのだろう。
上記写真は左側が西で鴨の顔はちゃんと日陰になる東を向けて翼に埋めている。
日が出れば、真っ先に気づく体制でもある。
ここでは写真右側の、水量が豊富だが土砂の堆積があり、葦が水路内で繁殖している右側の牟呂幹線水路の水面の表情と写真左側の水量がほとんど無くてウキが水路の路面に転がっている松原幹線水路の表情とに大きな落差があって面白い。
上記金沢町牟田の橋から下流側の金沢町牟田の橋までは240mあまりで、その橋上から下流側を望むと、30mほどで、大きく右にカーブしている〈上記地図内(4)〉。
この橋の下を用水路が抜けていて、水路が立体交差していた。
上記写真〈上記地図内(5)〉は牟呂松原幹線水路の右岸(西岸)で、かなり高い場所を牟呂松原幹線水路が流れていることが判る。
ここで3ヶ所目の立体交差になるが、牟呂松原幹線水路の方が上側を抜けているのは初めてだ。
下記写真は牟呂松原幹線水路の左岸(東岸)側〈上記地図内(6)〉。
いずれも、水路は水田の面より3〜4m深い場所を流れている。
上記写真の右手になぜかカラスが集っていた。
なぜ、ここにだけカラスが集まっているのか理由がまったく解らない。
牟呂松原幹線水路をたどっていて、カラスを見かけたのはここのみだ。
牟呂松原幹線水路のカーブに沿って80mあまり下流の橋に出ると、ここまで県道381号線の橋以外はガードレールを流用した橋しかなかったのが、初めて鉄筋造りの橋に遭遇した。
幅は4mあまりで、他の橋より50cmほど広い。
親柱には「大阪神社橋」とあり、桜の花の線画が装飾されている。
対岸には幟柱、石鳥居などがあり、山の上に向かう石段が立ち上がっている。
それにしてもなぜ「大阪」なのか。
大阪神社に関する情報は現場にもネット上にも見当たらず、名称の由来に関しては不明だが、大阪府には豊川駅が存在し、そのことと何か関係があるのだろうか。
大阪神社橋上から上流側〈上記地図内(10)〉を撮影したのが下記写真。
上記写真の左側手前に写り込んでいる竹竿は水路に落ちた子供などを救助するための竿で、すべての橋の欄干に吊るしてあるもの。
下流側〈上記地図内(11)〉を撮影したのが、下記写真。
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小学生低学年だった息子とレンタカーで奄美大島をツアーした時に、ハブ対マングースの戦いを見学したことがありますが、管理人がガラス箱の中のハブとマングースの間の仕切り板を抜くと、マングースが瞬時に3歩前に出て、ハブの頭をパクっと咥えて戦いは終了しました。
アジアでは蛇vs大ムカデのイベントも存在するようです。以下はその動画です。