御用地遺跡 土偶 54:岩戸を開けた男
ここからは安城市と岡崎市を流れる矢作川(やはぎがわ)の西岸に位置する遺跡や古墳を巡っているうちに気になった神社を紹介していきます。
愛知県刈谷市重原本町にある中条遺跡(なかじょういせき/土偶の出土している遺跡)と同じく高津波町の市杵島神社(祭神:市寸島比売命)を結ぶレイライン上に存在している竊樹神社(ひそこじんじゃ)に向かった時に、地図上で目に止まったのが岡崎市に位置する弥五騰神社(やごとじんじゃ)でした。
両社とも難読名称の神社です。
国道1号線から北北東に向かう路地に入っていくと、60mあまりで、国道1号線と並行した道路に突き当たり、左手に対になった幟柱が立っているのが目に入った。
その道路を渡る横断歩道の正面に弥五騰神社は存在した。
横断歩道の向こう側に白地の「岡崎市 矢作東小学校」と墨書きされた木標が立っており、その右脇に「東海道」と刻まれた石標が並んでいた。
弥五騰神社の社頭は下記写真の旧東海道に面していたのだ。
正面には石造の明神鳥居、右側の幟柱の右脇に「弥五騰神社」と刻まれた社号標。
社号標の右奥には経の刻まれた日蓮大菩薩の石塔がそびえている。
鳥居の奥には左右に高木の並木が青空に伸びており、その奥に玉垣が並んでいるのが見える。
現場では弥五騰神社の「騰」の文字が読めなかった。
読み方が判ったのはこの文を書くために調べた時だった。
弥五騰神社の細かな砂利の敷き詰められた境内に入り、旧東海道から10mあまりの場所に設置された石鳥居の前に立ったが、特に表参道は設置されていなかった。
鳥居をくぐると、正面の玉垣の奥に拝殿があり、その背景にベージュ色の矢作東小学校の校舎が見えている。
境内を奥に進んで、玉垣の前に至ると左右に松が数本あるのが目についたが、1本もまともに幹の直立したものが無かった。
玉垣の間からはコンクリートで叩かれた参道が拝殿に向かって延びている。
玉垣の間を抜けるとさらに5mほど奥に玉垣で囲われた、3段の石段が設けられた土壇上に本瓦葺入母屋造の拝殿が立ち上がっている。
拝殿前に上がって格子窓の付いた舞良戸の前で参拝したが、境内に由緒書は見当たらなかった。
ネット上の『岡崎市の神社とおいちゃん』というブログに由緒書が上がっていた。
http://okazakijinjya.livedoor.blog/archives/11426105.html
御祀神・【手力雄命】【忍穂耳命】【建御方命】【保食神】【菅原道真】
5柱昔は弥五郎殿と称した「信州浪合記」に、後村上院の正平の初年(1346)堀田弥五郎正秦と申す者、左太彦宮と内大臣定経の霊を崇め奉って祠を建てる。その願者主の名に困り弥五郎殿という。明治5年・神社調査の際、碧海群第96区5小区・西矢作村員外社となり、社名を弥五騰社と改め無各社として据置かれる。又、字内に祀られた八王子社・諏訪社を明治初年、境内社として祀る。大正5年8月21日・右境内2社を本殿に合祀した。
名古屋市内の天白区にも弥五騰神社と同じ「やごとじんじゃ」という読みを持つ八事神社が存在するのだが、祭神は應神天皇、大伴建日命(壱之御前社)、高峯大明神、武速須佐之男命となっており、まるで異なる神社だ。
もともと祀られていた手力雄命(タヂカラオ)は岩戸隠れ神話で知られた神で、力持ちの神として知られている。
『古事記』に記された神話を要約すると以下のような出来事だった。
スサノオが高天原(たかまがはら)で乱暴狼藉を働き、暴れまわったため、アマテラスは天岩戸(あまのいわと)に引き篭ってしまった。
そのため、天上界も地上も暗闇となってしまい、様々な問題が発生した。
そこで、八百万の神々が集まって、対応を協議し、思金神(オモイカネ)のアイデアで鶏を集めて鳴かせた。
また、布刀玉命(フトダマ)が御幣(ごへい:祭祀用具)として奉げ持ち、天児屋命(アマノコヤネ)が祝詞(のりと)を唱え、手力雄命が岩戸の脇に隠れて立った。
天宇受賣命(アメノウズメ)が岩戸の前で神憑りして肌をさらして踊ると、高天原に鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
これを聞きつけたアマテラスが天岩戸を少し開けたので、天宇受賣命は「貴方様より貴い神が表れたので、皆が喜んでいるのです」と説明し、天児屋命と布刀玉命が天照大御神に鏡を差し出した。
鏡に写る自分の姿をその神だと思ったアマテラスが、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。
こうして、天上界と地上は明るさを取り戻した。
おいおい、アマテラス様を騙して、引きずり出すような乱暴なことをしていいのかよと思うような神話だし、そもそも最高位にあるアマテラスは鏡を知らなかったのかと驚かせる話だ。
このアマテラスに乱暴を働いた手力雄命が祀られているのが弥五騰神社なのだが、その神の意味するところは、「力持ち」ではなく「世の中を明るくする」方なのだろう。
拝殿の裏面にある本殿は一般的な流造だったが、屋根は拝殿と同じ瓦葺となっていた。
本殿の周囲はコンクリート造りの塀で囲われていた。
本殿を囲うコンクリート塀の最奥左手には石祠が祀られていたが、由緒書きに照らし合わせると、明治時代初年に合祀された八王子社(忍穂耳命)・諏訪社(建御方命)を祀ったものだろうか。
また反対側の最奥には2基の枠取りされた板碑が置かれていたが、右側の板碑の枠内には「水神社」と刻まれている。
左側の板碑の枠内は読み取れなかった。
この2社が現在は本殿に合祀されているということだ。
拝殿西の玉垣外に出てみると、もはや杉とは思えないほど、幹が分裂し、神社からの圧力を受けているかのような形態をした杉が2本並んでいた。
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ヘッダー写真の児童の石像は弥五騰神社の本殿の裏面に位置する矢作東小学校の校門前に設置されたものですが、「どうろには、とびだしません」と刻まれた石標に手を掛け、「交通安全」の旗を持っていました。
それほど新しくも旧くも無い石像ですが、雰囲気は大正時代。
同じ時代に丹治郎たちは鬼と戦っていたのか。