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今朝平遺跡 縄文のビーナス 52:中馬街道付録

足助川が巴川に合流する地点を落合橋から視認できたので、足助川を辿る目的は果たしましたが、そのために辿っていた中馬街道(ちゅうまかいどう)は尾張や岡崎にまで分岐して延びていましたが、かつての足助町の入り口となっていた中馬街道は落合橋への分岐点からさらに410mあまり西に延び、現在は国道153号線(飯田街道/中馬街道)に合流して吸収されています。それで、足助町の入り口部分の中馬街道だけ、ついでに辿ってみることにしました。今度は右手のコンクリートで擁壁されたむき出しの崖と巴川の間を延びる中馬街道を西に向かうことになりました。

愛知県豊田市足助町落合 中馬街道
愛知県豊田市足助町落合 中馬街道 馬頭観音堂/滝行場跡/役行者岩屋/板碑

落合橋から中馬街道に戻り、100mあまり西に進むと、中馬街道沿いの右手に銅板葺入母屋造棟入で吹きっぱなしの馬頭観音堂が河原石を1.2mほどの高さに石垣を組んだ基壇上に設置されていました。

愛知県豊田市足助町落合 中馬街道 杉澤 馬頭観音堂

観音堂の基壇には赤地に「馬頭観音」と白抜きされた看板が立てかけられ、右脇には案内板が立てられていた。
ここにやってくる途中、中橋に通じる中馬街道の十字路に面して、お天王さまが祀られていたがその天王社前に「馬頭観音まで西に○○○m」と表記された道標があったが、この馬頭観音堂のようだ。
観音堂の頭貫(かしらぬき)には「杉澤」の小さな表札が貼り付けられている。

足助町落合 中馬街道 杉澤 馬頭観音堂 馬頭観音像

「杉澤」は、ここの地名かと思ったのだが、ここは「足助町落合」で、周囲にも「杉澤」名称は見当たらない。
合併などで失われた字名なのだろうか。
堂内には像高1.5mほどの大きな三面八臂(さんめんはっぴ:3つの顔と8本の腕)の馬頭観音半跏趺坐像(はんかふざぞう:片足だけ胡座をした像)が奉られていた。
路肩に奉られた馬頭観音像で、杉澤 馬頭観音像のサイズ以上の馬頭観音像は、これまで、3体しか見たことがない。
1体は名古屋市内。
あとの2体は、ここを含め、ともに豊田市だ。
豊田市のもう一体は稲武町に存在するが、稲武町の馬頭観音像が知っている中では像高が最も大きい。
杉澤 馬頭観音以上のサイズの馬頭観音は路肩ではなく、密教寺院の境内に奉られている場合が多いと思われる。
寺院や神社内となると、瀬戸市の密教寺院に1体、秩父市の神社でもう1体、遭遇している。
杉澤 馬頭観音の三面のうち、正面の馬頭観音の頭部には獣の頭部が浮き彫りになっている。
また、杉澤 馬頭観音の八臂は体の前で馬口印を結んでいる2臂のほかに持物を持った6臂があるのだが、左の3臂が持っているものは上から法輪、2番目は哺乳瓶のようなものを持っているのだが、見たことのないものだ。
他の仏の持物にも該当するものが見当たらない。
形としては宝篋印塔(ほうきょういんとう)の相輪部分にも似ており、もしかすると、陀羅尼(だらに:呪文)を収めた宝篋だろうか。
3番目は羂索(けんじゃく:紐)だ。
一方左手は上から宝棒、2番目が斧、3番目は右膝の死角に入っていて、見えない。

観音堂脇の足助文化財保護委員会の製作した案内書『大きな馬頭観音』には、以下のようにあった。

中山道の脇街道(物販輸送をはじめ庶民の道)として栄えた伊奈街道(※飯田街道/中馬街道)は、中馬による塩の道でもありました。明治も終りになって馬の背から馬車にかわると、このような立派な馬頭観音(三面八臂の典型的な坐像)が町の入り口に馬車組合の人々によって建てられるようになりました。                         (※=山乃辺 注)

杉澤 馬頭観音 案内板

馬車は流通量を増やし、経済的に豊かになったことで、組合も生まれたのだろう。
何れにせよ、馬車が使用されるようになって馬頭観音像が大きくなったというのは初めて知った。

三面八臂の馬頭観音像の収められた観音堂の外側だが、軒下には複数のものが置かれて並んでいたが、向かって左手の角花立と香炉の間に白い涎掛けをされた光背を持った石仏が奉られていた。

足助町落合 中馬街道 杉澤 馬頭観音堂 馬頭観音像

この石仏の頭部にはヘッダー写真のような大きな耳を持つ獣の頭部が乗っていた。

足助町落合 中馬街道 杉澤 馬頭観音堂軒下 馬頭観音像

つまり、この石仏は馬の背が荷物を運ぶ道具だった時代の一面二臂の馬頭観音像ということになる。

上記一面二臂の馬頭観音像と並んだ右端の軒下にはやはり白い涎掛けをもらった頭部に面長の獣の浮彫のある石仏が奉られており、これも馬頭観音像だが、馬頭観音には珍しい、円形の光輪を持っていた。

足助町落合 中馬街道 杉澤 馬頭観音堂軒下 馬頭観音像/馬頭観世音

上記写真馬頭観音像の右隣に奉られているのが「馬頭観世音(ばとうかんぜおん)」と線刻された板碑だが、「菩薩」との間で割られた板碑だろうか。
日本ではサンスクリット名から漢字に誤訳(?)された「観音(かんのん)」が定着してしまったが、「観世音」の方がより正しい訳だという。

杉澤 馬頭観音堂のすぐ左側にはトタン張切妻造妻入の車内に白い和紙を使用した御幣(ごへい)が祀られていた。

足助町落合 中馬街道 社

その社を見ていたら、左手に緑色のゴムホースがあることに気がついた。

何だろうと、ホースの出所を見上げると、そこは1枚岩の崖になっており、ホースの左手に水が伝い落ちていた。

足助町落合 中馬街道 滝

水量はかなり少ないが、滝だった。
ホースは崖の上から延びていたが、水は出ていない。

さらに上方をカメラのズームを最大にして見てみると、小さいが不動明王石像が奉られていた。

足助町落合 中馬街道 滝 不動明王像 

滝に不動明王。
ここが滝行場だったことを示している。
ホースは不動明王像の脇を抜けて、奥の暗闇に消えているが、そこに水壺でも存在するのかもしれない。

滝行場から、さらに中馬街道を西に向かうと、右手の崖の麓に階段状になったコンクリート造の棚が設けてあり、その棚に2基の板碑が置かれていた。

足助町落合 中馬街道 板碑

向かって左の板碑には「馬頭観世音菩薩」と刻まれている。
もう一基の方は刻まれた文字が判別できないが、文字の雰囲気から仏塔ではないかと思われた。
しかし、棚の横幅の広さからすると、この棚には他にもう1基別のものが置かれていたと思われた。
それが持ち去られたとすると、売買目的だろうから偶像だと思われるのだが、足助川を辿ってきた経緯からすると、役行者像である可能性がもっとも高いと思われる。
それでも、いきなり、板碑がここに置かれているのは妙だと思い、周辺を見て回ったが特に目につくものは存在しなかった。
さっき見てきた不動明王の例もあるので、再度上方を見ながら中馬街道を少し戻ってみると、崖の上方に岩の割れ目があることに気づいた。

足助町落合 中馬街道 岩屋

割れ目の暗闇の光が当たっているものが1本歯の下駄を履いた役行者の足であることにはすぐ気づいた。
割れ目の上方には黄色く変色したものもあるが、白い布が6枚下がっており、縦書きで4〜5文字の文字が規則正しく羅列されている。
こうしたものは初めて見るものだが、もしかすると役行者像とこの岩屋を奉納した人たちの名前を記したものだろうか。

下記写真は岩屋内の役行者のご尊顔が見られるかもしれないと、ズームでUPにした画像の明度を上げてみたものだが、右手の先が新しい石で補修されており、持っていた鉄の錫杖を取るために破損した経緯があったと思われる。

助町落合 中馬街道 岩屋 役行者像

これは、前の大戦で終戦末期に戦略物資としての鉄が不足したことから、多くの役行者の鉄の錫杖は徴収されたことによる。
それも、役行者像の価値の理解できない人たちは、錫杖を握っている手ごともぎ取ったものが多いのだ。
他に役行者の長い髭らしきものが見えるが、顔形は確認できなかった。
この役行者を見つける切っ掛けになったコンクリートの棚にはこの行者像は乗らないサイズなので、コンクリートの棚から持ち去られた役行者像があったとすれば、別のもっと小さな像だと思われる。

ここからさらに西に向かうとすぐ、中馬街道は高架になっている国道153号線の高架下沿いに出た。
そこから高架下沿いを西に延びた中馬街道は降ってきた153号線に180mあまりで吸収習合され、153号線となって豊田市市街に向かっている。

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足助川と巴川に沿って延びる愛知県道33号線(瀬戸設楽線)と中馬街道を辿りましたが、これらの街道は馬の多用された道であることから、馬頭観音が奉られ、さらに山岳部であることから山岳修行をした役行者像が奉られ、役行者が修験道の開祖とされていることから修験道の行場が複数存在し、そこは不動明王が奉られたルートであることが確認できました。そして、そのルートを2ヶ所の縄文遺跡を結んだレイラインが通過している(この例は乙川を辿った時に続いて2例目)のは偶然にしても面白いことでした。


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