今朝平遺跡 縄文のビーナス FIN:Stand by Me ドルメン
2012年10月 愛知県豊田市の猿投山(さなげやま)に登った1週間ほど後に御船町(みふねちょう)の御舟石(おふないし)に向かいました。
愛車で御船町 御舟石の真北90m以内の農道まで入って行って農道脇に愛車を駐めた。
徒歩で農道から外れ、南側の森の中を抜けると、少し開けた場所に抜けた。
そこには円形の蟻地獄のような窪みがあって、その中に巨大な石版が据えられており、その端に注連縄の掛かった駒形の板碑が立てられていた。
その背後には高さ15mくらいの土手が立ち上がっていた。
板碑には「御舟石」とだけ刻まれていた。
巨大な石版の周囲が窪みになっていなければ、石版の上面は周囲の地面と同じくらいの高さなので、巨大な石版はこの板碑を参拝するための拝所の土間だと思ったかもしれない。
石版の側面に回ってみると、石版の上面は平らだが、下面はボートの舟底のように見え、「御舟石」という命名は言い得て妙であることが解った。
脇に掲示されている井郷(いさと)まちづくりの会制作の案内板『御舟石(おふなちょう)』には以下のようにあった。
地図で調べてみると、御船川の水源は猿投山の麓に祀られた猿投神社本殿のほぼ東2kmあまりの場所にあり、猿投山から御船川までは洪水に乗って流れ込んだことになる。
猿投山上にとどまった2柱は猿投神社東の宮の景行天皇と西の宮の垂仁天皇とみられるので、この案内板の「猿投の神」とは大碓命だと考えられる。
そして、この伝承からは東の宮と西の宮を結ぶ脇参道に存在する2基の相似な石からなる御船石(下記地図猿投山山頂下に位置する)にそれぞれ、景行天皇と垂仁天皇が乗って降りてきたことになっていれば、伝承はよくできていることになるのだが、あいにくなことに、下記の記事とMAPで紹介している猿投山の御船石は2基の石セットで大碓命一柱が乗って来た船ということになっている。
ところで、2012年に御船町 御舟石のことをネットで調べていると、2007/02/05に投稿された記事に地元の古老、御船町曾輪田の中原さんという方にインタビューした御船町 御舟石に関する以下のようなコメントが紹介されていた。
このコメントからは、御船町 御舟石が2つの支石の上に巨大な石版が天井石として渡されていたドルメン(支石墓)であることを示していた。
ドルメンとは下記のような(この場合は4つの支石が使用されている)ものだ。
Wikipediaはドルメン(支石墓)に関して、以下のように説明している。
私は東北、中国地方、合わせて2基のドルメンと遭遇してきている。
それはともかく、御船町 御舟石がドルメンなら、御舟石の下を掘れば支石が2基出現する可能性があることになり、それを示すために周囲が掘られているようだ。
そしてこの御舟石は古代墓であることになる。
気になるのが「御舟石」と刻まれた板碑のことだ。
もしかして支石の一つを、この板碑として使用してしまったのではないかと疑ってしまったのだ。
ちなみに地球上のドルメンの半数(約4〜6万基)が朝鮮半島に存在することが分かっており、朝鮮半島では紀元前500年頃(無文土器時代)に築造されている。
日本列島では九州北部で多くみられるというが、私は九州北部より朝鮮半島に近い対馬ではドルメンに遭遇していないし、九州北部は通過しているだけで、数カ所の神社以外はほとんど観ていない。
御舟石の脇からはカーブしながら土手の上に登って行く石段が設けられていた。
石段を登っていくと森の中を敷線された通路が延びていた(ヘッダー写真)。
この線路は後で名鉄三河線の廃線跡であることが判った。
地図をチェックすると、この廃線跡は260m近く東にある滝一号古墳に向かっていることが判ったので、この廃線跡を辿って滝一号古墳に向かうことにした。
森の中の線路を歩いていると、どうしても頭の中で名画『スタンド・バイ・ミー』の音楽が鳴り始める。
映画『スタンド・バイ・ミー』は4人の少年が線路脇に転がっているという、列車に跳ねられた屍を見にいく話で、線路脇の遺跡がドルメン(墓)であるとしたら、妙に符丁の合う事態になった。
滝一号古墳脇の北東側には高架の東海環状自動車道が通っており、目印になった。
廃線跡から南側に離れると、開けた丘陵上に円墳と、その傍らに案内板板碑が存在した。
案内板板碑には豊田市の制作した以下の案内板があった。
下記写真は滝一号古墳のための通路のある南東側から撮影したもの。
滝一号古墳とその周囲はよく整備されており、墳丘には1本の潅木も見られなかった。
円墳の周囲を巡ると、西側に石室の開口部が存在していた。
羨道(せんどう)両側の石積が小型の自然石のみを緻密に組んだもので、美しかった。
池田一号噴がよく整備されているのには理由があることが以下の井郷まちづくりの会の制作した案内板『滝1号古墳』で分かった。
下記写真は同じ石室開口部に寄って撮影したもの。
天井石の側面が露出しており、前室は無いようで、玄室に直接長い羨道が延びているようだ。
もちろん、これは盗掘された最後の状態で再現されたものだろう。
玄室内を覗くと、側壁は天井に向かって狭くなる珍しい形状をしていた。
巨石は奥壁以外には使用されていなかった。
奥壁には2種類の石が意図的に使用されているようで、メインとなっている中央の三角形の石のみに苔が生して緑色になっていた。
このことを計算して2種類の石を使用したのだろうか。
いや、苔が生しているということは水分を含みやすい石(石灰分の多い石)ということで、墓所としては良くない環境なのだが、床も同様で湿気が多いことからシダ類が多く繁殖していた。
これは盗掘で陽が玄室内に指していることと、本来の場所ではない、水分の多い場所であることに起因する予定外の状況だと思われる。
設計者は乾燥しやすい石(石灰分の多い石)として苔の生している石をセレクトしたはずなのだ。
玄室の床には棺を置く壇にするためだと思われる巨石が地面に埋められていた。
この石も側壁の石とは異なっているので、奥壁の三角石や床に埋められた石と同じ石材なのかもしれない。
この石にも苔が生しているが、逆に室内を乾燥させるための石だったはずだ。
現在の石以外の床は赤土のようだが、これもここに墳墓を移したための予定外の要素だと思われる。
天井を見上げると一枚岩でできていた。
◼️◼️◼️◼️
今朝平遺跡を基にして巡った豊田市は、とりあえず終了になります。豊田市は山間部が広く、稲武町から先など、まだ足を伸ばしていない地域は多く、今後巡る機会があれば追加報告したいと思います。