
麻生田町大橋遺跡 土偶A 118:2基の円墳
豊橋市石巻本町に位置する馬越長火塚古墳(まごしながひづかこふん)に現在残っている前方部の南30mあまりに位置するもう一つの古墳、大塚南古墳に向かいました。




馬越長火塚古墳に残っている前方部を東西に分断している農道を南に向かうと、右手の草原の中に2段の段差があるのを感じた。

下の段の高さは30cmくらい、上の段の高さは1mくらいで、上の段の土手には灌木が茂っている。
それが大塚南古墳のようで、周囲は柿畑になっている。
草原の中を通っている獣道みたいな微かな通路を、その段差の方に向かった。

灌木が茂っている北側部分は上空から見下ろせば円形のようだが、東側は削り取られているらしく直線になっている。
墳上は平らなようだ。
案内書『国指定史跡 馬越長火塚古墳群 3基』にある大塚南古墳に関する情報を整理すると、以下のようにある。
大塚南古墳は直径19mの円墳です。農地造成で姿を変えていますが、 墳丘の中央には南に開口する横穴式石室があります(現在は埋められています)。発掘調査によって 須恵器や金銅装馬具が出土しており、 大塚南古墳は7世紀初頭、に築造されたことが判明しました。
下記写真は上記案内書にプリントされていた発掘時の大塚南古墳北側。

実際には2段で1.5m以上の高さがあるようだ。
下記の大塚南古墳の復元想像図は北側から見た大塚南古墳だ。

大塚南古墳の墳上に上がってみると、ドーム状だったはずの土は取り払われて平らになっており、全面が草原で、その中央に長方形に葺石が並べられていた。

航空写真で見ると、以下のような向きになっている。

葺石が並べられている部分はおそらく横穴式石室跡で、それを埋めたてるために葺石を使用したのだろう。
航空写真を眺めていて、大塚南古墳の北西10m以内と北西20mあまりの場所には馬越長火塚古墳の周溝跡らしき跡が残っているのが見て取れる。
後代に溜池として利用された跡にも見える。

大塚南古墳から、馬越長火塚古墳後円部の北東の麓に駐めた愛車に戻り、そこから西北西110m以内に位置するもう1基の円墳、口明塚南古墳(くちあけづかこふん)に向かった。

口明塚南古墳はちょっとした丘陵上にあって、墳上が柿畑になっているので、単なる柿畑なのか円墳跡なのかが判りにくかった。

通路らしきものは見当たらず、草原を丘陵上まで愛車で登ってしまった。
丘陵上の柿畑の中に一段と高くなっている場所があって、どうもそこが口明塚南古墳らしい。
案内書『国指定史跡 馬越長火塚古墳群 3基』にある口明塚南古墳に関する情報を整理すると、以下のようにある。
明塚南古墳は直径23mの円墳です。農地造成で姿を変えていますが、墳丘の中央には南に開口する横穴式石室があります(現在は埋められています)。発掘調査によって須恵器や金銅装馬具が出土しており、明塚南古墳は7世紀前葉に築造されたことが判明しました。
下記写真は上記案内書にプリントされていた調査中の明塚南古墳。

巨石も葺石として使用されたようだ。
現在の口明塚南古墳の東側の土手には白い石灰岩の巨石が1コ、露出していた(ヘッダー写真)。
愛車を丘陵上に駐めて、1段高くなっている場所に上がると、雑草に覆われた中に柿の木が並んでおり、古墳の雰囲気はまったく無い。

墳上の西端から南東に位置する馬越長火塚古墳へ延びる通路を見下ろしたのが以下の写真だ。

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古墳は整備されて石室に入場できるようにしたものと、外側からしか眺められないものが存在します。初めて石室に入る体験をしたのは石舞台古墳の日本最大の石室でした。この石室を見学した時の他の建造物では得られない体験が、古墳があればチェックしたくなってしまうことにつながっています。
今回の、発掘された石室の中では愛知県最大の石室を持つ馬越長火塚古墳はやはり、これまでの県内ではもっとも見応えのある古墳でした。